セッパクドウワ
雪白童話
10 11

『夢』って不思議な言葉。
 それは、不確定な未来に描く未来図。
 それは、不確定な未来に抱く希望。
 それは、不確定な未来に探す可能性。

 けれども、『不確定』な要素が少しでも『確定』に近づいたのなら。
 まったくの『絵空事』ではなくなりそうだったら。
 自分の努力や勇気や世界の奇跡ひとつで『実現』しそうだったら。
 それは『夢』の冠を外される。

 ならば、これからはなんと呼べばいいのだろう――??






















   【 一 】



 昨日まで降り続いていた雨はすっかりとあがり、十二月であるのにどこかしらぽかぽかとした陽射しが降り注ぐ街の片隅に古びた洋館は建っていた。
 こんなにあたたかいんじゃぁホワイト・クリスマスにはならないんだろうなぁ。わたし、今までクリスマスに雪が降ったの、見たことない……。
 ソファに腰掛けて、窓の外に広がるさわやかな青い空に視線を投げかけ二週間後に迫った大晦日前の大イベントへと想いを馳せているのは、セーラー服を身にまとった、髪の長い女子高生だった。
 彼女の前にある低いテーブルの上には季節の花と良い香りのする紅茶と、やがて来るクリスマスを意識しているのだろうアラザンがキラキラ輝いている星型の手作りクッキー。
 家のクリスマスツリーも飾り付けを済まし、街もすっかり模様替えしてクリスマスを待ちわびているのに、気候だけが秋のまま足踏み。それどころか、春へと逆戻りしたのかと思えるほどにどこかしらあたたかい。
 おだやかであたたかい……と考えていると、窓の外に広がる空の青さが目にしみて、ふわぁと小さなあくびがもれた。少々低めの、座り心地が良いソファに全身を預けているのも一因ではあった。
「なんだ、まゆら眠いの?」
 ふ、と空気が動いて声がかけられた。まゆらと呼びかけられた少女の視線の下――窓の下に設置された大きな書斎机からだ。
 声をかけたのは、大きな書斎机には不釣合いなほどの少年だったが、その声や眼差しや雰囲気は大き過ぎる机と比べても見劣りはしなかった。かっちりとしたシルエットの黒衣、胸元には白いリボンを品良く結んでいる。
 机の上に開かれているのは、分厚い本。背表紙のタイトルはどこの国の言葉かもわからないもので、中身も同じ言語で書かれているのでまゆらにはなになのかすらわからない。ただ、金箔押しの高そうな、古そうな、そして難しそうな本だとしかわからない。
 本当にこの本読めているのだろうか。理解できるのだろうか。と自分の背丈よりもはるかに低い少年が持つには持て余し気味の大きな本を眺めるたびに疑問に思うが、きっとちゃんと読めているし理解できているのだろうとまゆらにはわかっていた。なにせ、彼は見た目通りの存在ではないのだから。この『燕雀探偵社』の所長なのだから。
「んー、なんか、昨日久々に夢みちゃって」
 ふわ、ともうひとつあくびがもれる。
「怖い夢?」
 ううん、とまゆらは首をふった。
「怖い夢じゃなくて、小さい時の夢。大きくなったらなんになりたい? って聞かれて答える夢。おかしいね。夢の中で夢を語ってるの」
 ふーん、と少年は少々興味を持った相槌を入れた。いつもは表情も態度もどことなく淡白なのに、興味を持つなど珍しい。
 とは言っても、今までの少なくない経験上、探偵社の所長が興味を持つことが後々こちらにどう影響するかはわかりきっていたので、まゆらは慌てて話の重点をずらそうと試みたのだが――
「ね、ロキ君は大きくなったらなにになりたい?」
 深く考えずに『子供に向けるには当たり前過ぎる質問』を向けたあと、まゆらは墓穴を掘ったのだと気がついてしまった。
「ん? ボク?」
 ロキと呼ばれた少年は一瞬視線を宙に泳がせたけれども――次の瞬間には、にやりと子供らしくない笑みをつくった。
「まだわかってないんだ。ボクは十分キミより大人なんだけど」
 そうして、つと椅子から立ち上がり、ゆっくりとまゆらへと歩み寄る。
 そうなのだ、目の前の少年は単に大人びているとか博識だとか頭の回転や洞察力や記憶力がいいとかそんなレベルの存在ではなくて――本当は、ちゃんとした大人なのだとまゆらは知っていた。
 それも、別の国の、別の世界の、人間ではない『特別な存在』――それが彼の正体だ。
 ソファに腰掛けたままの自分の目を真っ直ぐに覗き込むようにしている緑色の瞳には小さな子供特有の不安定さや伸びやかな色など微塵もなくて、まるで深い沼の底を覗き込んでいる心地になるのだが――
「ところで、まゆらの『夢』ってナニ?」
 大人の視線を向けてくるかと思えば唐突に目を細めて無邪気に笑うのだから、目の前の存在はとことんまゆらにとって心臓に悪い。
 まゆらはロキの雰囲気に飲まれかけ一瞬うっと言葉に迷ったが、雰囲気に飲まれかけたなどと気付かれなくてわざと明るい声を出した。
「まゆらちゃんの夢は小さい時からず〜〜〜〜〜っと『探偵』になることよ」
 昨夜見た夢でも、小さな自分は迷いもせずに
『まゆら、おっきくなったら探偵さんになる!』
 と答えていたのだから、今更ここで繰り返すのに迷いも気弱な声も似合わないのだけれども。
「ふーん……で、その『夢』には続きがあったんじゃないのかな」
 低いソファに座ったままのまゆらと立ったままのロキでは、どうやってもまゆらの方が目線が下になる。
 どうにもこの雰囲気や立ち位置は不利だ、とまゆらは思わずにいられなくて、視線をさらに下にある低いテーブルへと落とす。花瓶に飾られた季節の花が薄い花びらを震わせていた。その様子を『のんきだ』と思わずにいられない。立派なヤツ当たりであり現実逃避だった。
「……探偵さんのお嫁さんになる、かな?」
「なんで疑問系なの?」
「だって、これって自分の努力だけじゃどうにもならないもん。『ご縁』って奇跡がないとダメだから」
 わたしと『あなた』がこの世界で出会うご縁。
 そして、わたしが『あなた』を好きになる奇跡と『あなた』がわたしを好きになる奇跡。
 全部揃わないと叶わない夢は、さすがにはっきりと胸を張って言い切れる『夢』ではない。独りよがりではた迷惑な『妄想』や『願望』だ。
 ロキは先までの『子供らしく見える笑み』の色合いを少々変化させ、
「じゃぁ、ご縁と奇跡の片方は大丈夫なんじゃないの?」
 だって『探偵のボク』はキミが好きなんだから。
 ロキは真っ赤になってかたまるまゆらの頬に、軽く口付けた。
 まゆらはなんの反応をかえすこともできない。
 ……自分は大人だと言うくせに、小説やドラマみたいに駆け引きせずに直球でそんなことを言ってくるから、本当にそうなのかわからないじゃないか。普段は皮肉や暗喩にまみれた言葉を連ねてくる口から同じ言葉を贈られても、素直に信じられるわけないじゃないか。
 それよりも、信じきれない言葉を贈られて胸に湧いてきた自分の気持ちの方が信じられなくて――持て余してしまって、なにをどう感じているのか、気持ちの色がはっきりと見えない。
「……わかんない」
 結局まゆらがどう言えばいいのかわからなくてもじもじと呟くと、奇跡待ちも面白いかな? とロキが笑った。
 からかわれているだけじゃないといいんだけど、と思った自分自身を、まゆらは不思議に感じた。

   【 二 】     



 それは、どこにでもある光景だった。
 薄い長方形の箱をドミノのようにいくつも並べた公団の敷地に、薄い夕闇が落ちていた。
 十二月も半ばを過ぎると夜は恐ろしいスピードで空を覆っていく。
 幾つかの星の光と街灯とに照らされ、すぐそばを走る電車の走り去る音に満たされた小道の分岐点に、大きな布のバッグをさげた女の子がふたり。
 頭の高い位置で髪を結わえた女の子はショートカットの女の子にいつものようにバイバイと手を振って、目の前にある十五階建て百五十戸の階段へと向かった。
 ショートカットの女の子は分岐点を更に進み、後ろを振り返りもせず隣の棟へと向かう。
 肩からさげた布のバッグには、幼稚園の頃から習っているピアノの教本がぎっしりと詰まっている。
 一番の友達の優亜ちゃんと競争しているからどんどんと教本は進み、どんどんと本は分厚くなる。それは嬉しいけれど、教本が重くかさばっていくのは好きじゃない。でも頑張る、と女の子はバッグを持ち直す。その重みは、彼女の『夢』への重みだからだ。
 今日は、クリスマス前のピアノ発表会の詳しいお知らせのプリントもある。家に帰って見せなくちゃ……お父さんとお母さん、見に来てくれるかなぁ。
 女の子は考えながら小道を歩き切り、小さな階段をまっすぐにのぼり、五階にある我が家へと向かっていたのだが……
 彼女の小さな姿はその日家に帰ることなく。
 どこを探しても彼女の痕跡はなかった。

   ***

 都心部からほど近い街の一角に古めかしく謎めいた洋館が建っているのだと、ひそやかな噂になって久しいが、興味のある者は遠巻きにし、興味のない者は素通りにするばかり。なぜならその洋館の鉄門脇に大きく掲げられているのは――『燕雀探偵社』の五文字だからだ。
 その屋敷に率先して関わりを持とうとするのは、悩みやトラブルを抱えている者か――探偵社に勝手におしかけた探偵助手くらいであった。
「話聞いたことあるよ。隣町で女の子が次々行方不明になってるんだって」
 奇特な行動を連発させているおしかけ探偵助手のまゆらは、案外と情報通でもあった。
「噂では、少なくとも五人は行方不明になってるんだって。警察も情報を伏せてるらしくって、テレビのニュースにはなってないんだけど」
「ふーん。ガセネタじゃなくて?」
「あ、信じてないでしょ。隣町から来てるクラスメイトがいるんだけど、年の離れた従妹がその五人の内のひとりなんだって悩んでたんだからね。ジョーダンでも言えないよ、こんなの」
 ぶーと頬をふくらませてむれたまゆらの反応に、じゃぁホントに家出の線は薄いんだ、と屋敷の二階にある重厚な調度品に囲まれた一室の、これまた重厚な書斎机の椅子におさまった探偵が考える。
「やっぱり信じてなかったんだ。ロキ君っていっつもそう」
 まゆらは、品の良いソファからクッションを掴んでぎゅうぎゅうと抱き込んで『ご不満です』と全身で抗議する。どうにも子供っぽい仕草であった。
「まゆらだっていっつもそうじゃないか。すぐ拗ねるしむくれるし。見てて飽きないけどね」
 ロキが面白そうに笑えば、まゆらはさらにむくれるのだが、それすらもロキにすれば予想通りの反応なのだからこちらのダメージにはならない。
 まゆらはぷんっと頬をふくらませながらも、
「それでロキ君、さっきのヒトの依頼受けるの? 梅沢波音ちゃんの捜索」
 先の先までこの書斎兼応接室にいた依頼人の話を忘れてしまったわけではないらしい。
「波の音と書いてハノン。今時のお子様の名前と言えば今時だけど、読めないことはないかな」
 依頼人の話を聞きながら書き留めていた走り書きに目を通しながら、ロキはどうでも良い点にツッコミを入れる。
 本当に、表面だけを見ていれば、探偵としてやる気があるのだかないのだか判断に困る少年だが、その実かなりの切れ者であるのだと知っているだけにまゆらも口を挟まない。口では世の中を斜めにとらえた辛辣な言葉を吐いていても、頭の中ではなにを考えているのかわからないのだから思考を邪魔してはいけない。
「波音ちゃんのお母さん、すごく顔色が悪かったね。きっと心配で眠れてないんだろうな」
 まゆらは肌触りの良いクッションの上に顎を乗せ、ため息にも似た言葉を紡ぐしかできなかった。
 子供が行方不明になって――しかも、噂の域を出ないとは言え、同じように行方不明になっている子供がいるとわかっているだけに、親はやり切れないだろう。
 燕雀探偵社に行方不明の子供に関する依頼をしに来た母親は、はじめこそ探偵が子供なのだと知って動揺を隠せなかったが、話をしている間にすがりつかんばかりの目をしてロキを見ていた。げっそりとこけた頬や、青白い顔には、哀願以外の色はなかった。
「まぁ、もしかしたらハノンちゃんに関しては単なる家出かもしれないけどね。ほら、最近の女の子ってイロイロ進んでるって言うから」
「イロイロす……進んでるって言っても、波音ちゃんはまだ小学二年生だよっ。いくらなんでもそれは……」
 まゆらはなぜかしら真っ赤になり、視線を不自然にロキから逸らした。その不自然さは『目いっぱい意識しています』の反応で、ロキは唇の端をあげて笑った。彼女が見ていないところでのその笑みは、まさしく邪笑だ。
「ナニ意識してんの、なにか勘違いしてない?」
 くつくつと笑えば、まゆらは完全にロキとは反対側の壁へと体ごと向き、胸元に抱き込んだクッションを抱き潰そうとしている。けれども、背中しか見えなくとも長い髪の間から覗く耳が赤く染まっているので、どんな表情をしているのかロキはきちんと把握できていた。
 きっと彼女は指の先まで真っ赤になって、しゅわしゅわと泡となってこの場から消えてなくなりたいとか考えているに違いない。
「んー、あながちボクが考えてた方向とも違ってたワケじゃぁないんだけどなぁ」
 まゆらはさっと両手で耳を押さえて、必死に聞かないフリの行動に出た。やっぱり指の先まで真っ赤だった。
「助手がそんなにこの依頼を嫌がるんなら、所長としては受けるわけにはいかないんだけど」
 まゆらはそれでも聞かないフリを続行していたのだが――
「ま・ゆ・ら」
 耳を押さえていた指先に触れるやわらかい感触にびくりとし、先とは別の意味で硬直してしまった。
 勘違いでなければ右手の指先に触れているのはロキの唇で、左手を包んでいるのは彼の左手ではないだろうか。
 ソファに座ったおのれを後ろから楽々と抱きしめるようにしているのは――……
「ロキ君、その姿は反則だよぉ」
「反則ってなにさ。どっちかって言うと、こっちの方がホントの姿なんだけど」
 まゆらが考えた通り、後ろにはこの部屋にはいなかった、背の高い男がいた。あわくけぶる金色の髪に青い目を持つ若い男だ。いや、髪の色や目の色が違っても、彼が『ロキ』であるのだとまゆらは知っていた。知っているだけに、抗議の言葉は恥ずかしくて弱々しくなる。いつぞやは半分ほどは逃げられたが、今日は完全に逃げられなかったらしい。
「……スキンシップとかコミュニケーションの範囲、超えてる……」
 そう? とロキは我関せずの態度だ。左手はとうにまゆらの手の下にもぐりこみ、さらさらと髪の感触を楽しんでいた。
「だからっ。依頼のこと、どうするのか考えてるの、ロキ君っ?!」
「んー、だって事件って隣町デショ。歩いてくには距離が有り過ぎるし、断ろっかなーって考えてる」
 後ろから降ってくる声は妙に耳元間近でゾクゾクするものがあるが、その声色は完全な『投げやり』口調だった。これは本気でこの理由ひとつで断りかねない。ロキならばやりかねないと考えられるのもある意味悲しいが、前科に近いものがひとつふたつでは済まないだけに、楽観できるはずもなかった。
「〜〜〜〜っ。あーもうっどーせバスに一緒に乗ってくれなきゃヤだとか言うんでしょっ。一緒にバス乗ってくから、女の子たち捜してあげようよっ」
 じゃなきゃ……行方不明の女の子たち、もうすぐのクリスマスを家で過ごせなくなっちゃうよ。
 まゆらがぽつりと呟いた言葉に、ロキは見えないように笑った。彼女はこんなところが非常に優しくて――ある意味つけ込みやすい。
「乗ってる間、手も握っててネ」
 ほらボク、バスも車も苦手苦手のお子様だから。
 ロキはここぞとばかりに要求した。邪気などかけらもありませんとの、こぼれんばかりに無邪気な笑顔だったが、わざとらしいまでの笑顔は今のまゆらにとっては邪笑でしかなかった。

   【 三 】        


 

 閑静な住宅地に溶け込むようにして、その建物はあった。落ち着いた緑色の屋根の、イギリスかどこかの田舎にある、洒落た古民家のようだった。実質は、その家が建てられたのはわずか十五年前で、古びた感じは雰囲気を狙って演出されたものだった。
 ほどほどの面積をとられた前庭には季節の花樹が植えられ、どの時節に訪れても美しく彩られている。庭の真ん中をゆるやかに蛇行してつくられた白い小道も可愛らしい。
 道に面した出入り口の脇には『前川人形館』と浮き彫りになった青銅の表札がかかっていた。けれども『人形館』となっているにも関わらず、現在は扉に『臨時休業』の札がかけられ、中にはふたりの人間しかいなかった。
「おばぁさま、本当にどうしたんですか? 急に年内いっぱい休業にして欲しいだなんて」
 長い黒髪を首の後ろで一本縛りにした若い女が、嫌味にならないように意識して調節した口調で目の前の人物へと問いを向けていた。
 椅子に腰掛けた人物は、女の『祖母』と言うには年が離れすぎた老婆だった。それもそのはず、若い女は彼女の一番上のひ孫にあたる人物で、本来なら『曾祖母』が正しい呼称なのだ。だが、曾祖母、老婆と表現するほどには年老いて見えず、可愛らしささえ感じる長いスカートに、薄っすらと花模様の織り込まれたブランケットを肩にかけている様子など、可愛らしく『おばぁちゃま』と呼ぶのに相応しかった。
「クリスマス時期は一番来館者数が多い時期なんですよ。そりゃぁここはおばぁさまの子供たちを見てもらいたくてつくった美術館だから利益目的がどうこうは言わないけど、維持費は捻出できなくちゃ困るんです」
 さして大きいとは言えないが内部のつくりはこだわりを持ってしつらえられていて、さりげなくおいてある椅子やテーブルはアンティークの一点もの。大きく取った窓にかけたカーテンも輸入物だ。
 なによりもこの部屋で価値があるのは、そこここに飾られている人形たちだ。全長七十センチ程度の、洋装で着飾ったドールたちは、青や緑の目でふたりをさりげなく見つめている。その肌のきめ細かさや、透き通りそうな白にほんの少しだけ乗せられた赤みや、反して人形らしい無表情さは、まさに芸術品だった。強いて値段をつけるとしたら、一体数十万から百万は軽くつくのだ。
 それらだってガラスケースにおさめるなどの無粋な真似はしていないが、部屋全体の湿度や温度もさり気なく管理しているし、定期的にアトリエでメンテナンスだってしているので余計に維持費がかかるのだ。
 隣の小部屋をカフェ・ルームに改造したのは去年のことで、改装費だってまだ回収できていない。来館者が多いとは言っても率先して宣伝しているわけでもないし世間的に関心の高い分野でもない為に、訪れる人数も彼らが落としていく利益もしれている。
「ごめんなさいねぇ、つぐみちゃん。でも、どうしても裏のアトリエを使いたくってね。つぐみちゃんもね、今年度いっぱいはお休みにしてくれていいわ。ほら、あなただって海外旅行くらい行きたいでしょ、チャンスじゃない。一週間くらいのんびり行ってらっしゃいよ。寒い日本から脱出してあたたかいところに行くといいわ。この年になるとねぇ、あたたかいって言われてる冬でも膝が痛くなるのよねぇ。沖縄にでも住んじゃおうかしらって本気で考えるくらいよ。よかったら家を探してきてくれない?」
 老婆は軽い口調で喋り続けている。つぐみにとって、里子がこの口調の時は本気なのか冗談なのかわからないので困ってしまう。
「本家にもアトリエがあるじゃないですか。そちらはダメなんですか?」
 おっとりしているようで言い出したら聞かない曾祖母の意見をかえるには『宥めすかし』が効くだろうか? つぐみと呼ばれた女は、ぼんやりと考えるがそれも無駄な気がする。宥めすかしが効くようでは、海外にも名が知れ渡った人形作家・前川里子の地位は確立できなかっただろう。作家としては引退して久しく、最近は完全な個人的趣味でしか作品をつくってはいないが、そのあたりの気質は何年経っても和らいでいないはずだ。ある意味、意思が強固なのではなく、のらりくらり、暖簾に腕押し、糠に釘とも言えるのだから素であるだけに恐ろしい。
「家の方じゃぁ煮詰まっちゃってねぇ。モノも多くって手狭だし。気分をかえて街におりてきたのよ」
 山奥の、いわゆる別荘地に家兼アトリエを構えている里子は、今までもふらりと『気分をかえたい』とこの人形館の裏につくった小さなアトリエに篭ったことがあったが、かと言って表の前川人形館まで休業にしてくれなどと言い出したのは今回がはじめてだ。
「だってねぇ、ここを開けてると、わたしに会いたいって方が何人もいたでしょう? 若いファンの方とおしゃべりするのは楽しいけれど、そろそろそんなお付き合いもわずらわしくってね」
 ほら、わたしの残り時間もあとわずかでしょう?
 おっとりと笑う里子の頬は、三十を幾つか越えたつぐみが見ても羨ましいほどにふっくらとしたもので、『人生の残り時間』や『お迎え』の言葉がなによりも似つかわしくなかった。
「……香姫ちゃんのクリスマス・プレゼントつくりなんですね」
 つぐみは、どこかしら薄く暗い色をまとって、同じく里子のひ孫にあたる女の子の名を呼んだ。自分がひ孫の中で一番上なら、香姫は一番下、最後のひ孫にあたる少女だ。
 一番上のひ孫のつぐみですら里子の『芸術品レベルの人形』をもらったことなどないのに、香姫だけは唯一毎年クリスマスに人形を贈られている。同じ立場のひ孫としては、香姫の存在は複雑さを通り越していた。
「えぇ。だって香姫ちゃんは可愛いでしょ。お姫様だもの。香姫ちゃんにわたしの子供たちを持っていて欲しいのよ。でも毎年困っちゃうわ。香姫ちゃんったら、どんどん綺麗になっていくんだもの。釣り合いがとれる子供を作り出すのは、大変」
 老婆は、冷たい色をひたひたとたたえて睨みつけるようにしているつぐみの視線などには気がつかず、片手を頬にあてこっくりと首をかしげ、窓から見える庭へと視線を落とす。
 彼女にとっての『わたし』など眼中にはないのだとの態度につぐみには感じられてならなかった。

   ***

 里子は前川人形館を出て、ピンク色の軽自動車のハンドルをみずから握り、舗装の良い道を走っていた。
 若い時分から人形作りに没頭し、三十歳の頃には海外で名前が知られるほどの人形作家になっていた彼女が『ちょっとした気分転換』で運転免許証を取得したのは、五十を越えてからだった。それから一度も事故などせず、軽いフットワークであちらこちらへと小回りのきく軽自動車で動き回っている。
 つぐみちゃんなんかはおばぁさんのくせにピンクの車なんて、って言ってたけど、可愛いじゃない。
 愛車を見るたびにつぐみとのやり取りを思い出してはふふと笑う。
 あの子もとても可愛いのだけれどもねぇ、わたしが『好き』な可愛さとは違うのよねぇ。
 里子は少々つぐみが不憫でならなかった。四角四面で几帳面な性格やぽんぽんと言い返してくる頭の回転の良さは曾祖母としては可愛らしく感じるが、人間的には少々面白くないし、第一こちらに訴えかけるほどの美や愛らしさにはとことん欠けている。なによりも、あの無愛想な眼鏡がいけない。女の子は夢見る瞳でなくっちゃ、わたしの子供たちのように。
 それにくらべて一番下のひ孫の香姫は、同じく四角四面で几帳面でその上誰よりも頭が良いけれど、なによりもあの美しさ! およそ子供とは思えないほど――いえ、人間だとも思えないほどの美しさ。瞳は黒々と輝き、まるで夜空を閉じ込めたみたい。あの子と比べたら、凡庸とした性格と凡庸とした顔をした他の子たちなんぞ目に入るわけがない――……里子は、香姫を思い出すだけでうっとりとした。
 つぐみは知らないのだ。数多い孫やひ孫の中でも、つぐみはまだ里子に『ひ孫』だと認識され、扱われている方なのだと。
「あら、ここだったかしら」
 ゆっくりとした速度で走っていても、どうやらかなりの距離を過ごしたらしい。とうに隣町の住宅地へと入り込んでおり、大きな公園に突き当たっていた。
「随分遠くなのねぇ。公園の感じもいいわね」
 里子は駐車場にのんびりと車をおさめて、ほてほてと公園へと入っていく。
 休日の午前中であるので、十二月の半ばで少々肌寒くはあったが、何組かの親子連れや友達同士が思い思いに遊んでいた。公園に備え付けてある遊具で遊ぶ子供たち。バドミントンをする姉妹。ビニールシートを広げてその上に寝転がりながら、マフラーも手袋もせずに腕白盛りの息子が走り回っているのを視線だけで見守る寒そうな父親。小道の向こうには、大きな白い犬と小さな茶色の犬を散歩させている初老の夫婦の姿もある。
 里子はそれらの光景を眺められる公園の端にあるベンチへとゆっくりと向かうが、日当たりの良い場所はどこも先客がふたり以上いて座れそうもなかった。寒くなってきた季節に日陰に座るなど、とてもではないができそうもない。膝が痛くなるから嫌だ。
 日向をさがして公園を半周ほどしたところで、ようやくあき席のあるベンチが見つかった。先客は十六・七の女の子だけで、人待ち顔で道の反対側を眺めている。
「待ち合わせかしら。お隣に座ってもいい?」
 声をかければ、ぴょこりとうさぎが振り返るのにも似た仕草で顔をあげたのは、たいそう可愛らしい女の子だ。シルバーともブルーとも言えるハーフコートにオフホワイトのマフラーで大きなリボンつくってあわせていた。
「はい、どうぞ」
 屈託なく返事をする笑顔も素敵だ。最近の女子高生と言えば、テレビで見るのは斜に構えている蓮っ葉な子たちだけれども、このお嬢さんは良いところの育ちなのねぇと里子はのほほんと考える。
「待ち合わせは恋人と? そうだったら、その人の姿が見えたらすぐに言ってね。おばぁちゃん、お邪魔にならないようにさっさと退散するから」
 女の子はぼわりと音がしそうなほどに頬を赤く染め、一生懸命否定した。服装が白っぽいだけに、その赤みはなにより目立つ。
「こ、コイビトじゃないです! わたし、実は探偵助手で、調査に行くのに探偵と待ち合わせなんですっ」
 もぉう、バスに乗るのがヤだって駄々こねる困った探偵なんですよっ!
 彼女はなにかを否定したいのか、握りこぶしを作って里子に訴える。
 あらあらあら、待ち人は甘えっ子の探偵さんで、恋人さんなのね。わかるわぁ、この子の反応、とても素直で可愛いもの。ちょっといじめたくなる雰囲気があるのよねぇ。
 里子はふふと笑った。
 探偵の職業とその助手ってのは不思議だけど、こんなに真っ赤になるくらいなんだもの、きっと素敵な関係なのね。
 里子はとても微笑ましい光景をみた気持ちだった。
 可愛いじゃないの、大きな子でも、こんな子がいるのねぇ。
「あ……ロキ君」
 女の子が小さく声をあげたのにつられて『噂の探偵さんはどんな人なのかしら?』とひょいと覗いてみれば、道の先を歩いているのは黒衣姿の男ではあったが――隣の女の子とは年の離れすぎた、子供だった。
 いやだ、老眼が進んだのかしらと目をしばたたかせてみてもまゆらの視線の先にはその子供しかいないし――なによりもまゆらの頬の赤みが増していて、彼こそが待ち人なのだとはっきりわかった。
「おや、まゆら。お友達?」
 ゆっくりとした歩調で目の前にやってきたのは、やはり子供だった。
 どうやら自分の目はまだ大丈夫らしいとわかって安堵したが……かわりに、午前の光の下にいるにはアンバランスな子供の姿にくらくらとした。子供は元気に外で遊んでいるのが普通の姿であろうに――なぜだか目の前の少年には『子供』のくくりが相応しくないようで。
 それでも目を惹かずにはいられない、不思議な雰囲気。話し口調も子供が持ち得ない余裕のある響きで、耳になめらかだ。
「少しお話してただけ。じゃぁわたし、行きますね」
 女の子がまたしてもうさぎめいた仕草でぴょこりと立ち上がり、同じ勢いでぺこりと頭を下げた。
 ゆっくりと公園の小道を行き近くのバス停へと向かう大小・白黒の背中を見送りながら、里子は『不思議』に全身をすっぽりと包み込まれた心地になるのであった。

   【 四 】         

 

 ピンク色の軽自動車は、いつものんびりと道を走っているものなのだが、隣町から帰ってきたその車は、どこか夢でも見ているのではないかと思えるほどにふわふわした足取りだった。
 ふわふわした表情のまま里子は前川人形館の前庭をふたつに割る白い小道を辿り、古めかしく細工した鍵をポケットから取り出して扉を開ける。
『受付』なんて無粋なものは設置していないので、扉を開ければすぐに人形たちが迎え入れてくれる。みんな里子の手製――子供たちだ。
 一番大きな部屋の窓辺にはレースを幾重にも重ねた金の巻き毛の女の子型ドールが赤い布地を貼ったひとり掛け用の椅子に腰掛けており、小さな丸い木造りのテーブルを挟んで同じ椅子をセットしてある。里子はその椅子にふらふらと腰をおろし、室内を眺めやった。
 異国人の顔をした、可愛い可愛い子供たち。
 白い肌に鮮やかな目を持つ、現実には存在していない、わたしの夢の中から掘り出した子供たち。
 理知的で無垢な目をしているかわりに、口応えはおろか言葉ひとつ発しない人形たち。
 賢いかわりにその賢さを内側に押し隠し片鱗すら見せない。
 一緒にいて疲れもせず癒されはするが、それ以上はなにもしてくれないしできない。ただ文句も言わず付き合ってくれるだけだ。
「こんにちは、おばぁちゃん」
 今はなぜかあんなにも慈しんだ子供たちの視線がわずらわしい、と里子が目を閉じてふぅと息を吐き出した時、誰もいないはずであるその人形館に子供の声が響いた。声変わり前の、通りの良い男の子の声だ。
「和実ちゃん、いらっしゃい」
 里子はふぅと目を開けて声の方向へと視線をやる。そこには思った通り、和実――東山和実の姿があった。右の前髪を不自然に伸ばした小学生だ。
 里子は『どうしてこの子が?』と不思議にも感じなかった。なぜなら『この時間この場所で』と約束していたのだから。
 彼はどこかしら足音はおろか気配さえも感じさせない存在だったが、慣れてしまえばその気配の薄さも心地が良い。
 和実は子供らしい表情で笑った。
「おばぁちゃん、面白いもの、見つかった?」
 里子も同じ笑みを向けた。
「えぇ、ありがとうね、和実ちゃん。今日あの公園に行ったら面白いものが見つかるって教えてくれたの、あなただものね。またやってね、カード占い」
「僕の占いなんてまだまだ。でも、喜んでもらえて嬉しいな」
 和実はどこまでも子供らしい態度だ。それはそうだ、この子は正真正銘子供なのだから――と考えながらも、里子は頭の奥の奥、心の隅の隅で『惑わされるな』と危険信号が点滅しているのに気がついていた。だが、それも彼の言葉の前には溶けて消えていく……
「和実ちゃん、わたしね、考えたんだけど」
 思考は溶けて溶けて、おのれの欲求が――欲望だけが剥き出しになる。本来なら覆い隠しておかなければならないことがらが露出する。大人の分別も、常識も、なにもかもが消えていく。
 いや、これは和実のせいではない。彼が悪いのではない。大人の分別も常識も理性も危険信号もなんの意味があるだろう。そんなモノに縛られた人生はつまらない。砂糖よりも甘い誘惑を望んだのは、他ならぬ自分自身――……
「アトリエの『あの子』と対になる男の子の人形を作りたいなって、あのふたりを見てて思ったの。ダメかしらねぇ?」
 つぐみには『香姫用の人形を作る為にアトリエにこもる』と説明していたが――アトリエのテーブルには、長い銀色の髪に紫の目をした美しいドールがすでに完成していた。白を基調にしたドレスには薄い水色のレースをふんだんに使用していて、これまた里子は大満足だった。人形としての造作も、あわせた衣装も、まさしく『冬の娘』の銘がぴったりなドールだ。
 けれども、里子は『冬の娘』がまだ完成していないのだと知っていた。
 優れた人形師が作った人形には魂が宿ると言われている。
 里子の作品には良く『魂が宿っている』と評されたものだが――里子は『人形に本当に魂が入った』状態がどんなに素晴らしいか、知ってしまった。
 そして、自分がつくった今までの子供たちには魂などかけらもこめられていなかったのだと気付いてしまった。
 まっとうな手段で『魂がこもる人形』の作成を目指すのにはもう時間がない、と里子は知っていた。そして、『まっとうではない手段』も知ってしまった。
 すべては、目の前の不思議な子供が教えてくれた。
『人の魂を人形に移す方法』
 それが邪道だとわかりながらも、里子は嬉しくてならなかった。生きている人形を作り出せるのだとわくわくした。彼の教えた方法は、悪魔の所業か、はたまた神の御技かはしらないけれど。
 人形館の裏にあるアトリエには、『冬の娘』の銘を持つ少女と、愛らしい数人の少女たちがひっそりと眠っている。彼女たちは空腹を訴えることなく、不平を口にすることもなく、帰りたいと泣くこともなく、深いまどろみの中にいる。
 悪魔だろうが神だろうが、わたしには怖くはないわ。だってわたしは人形師。そして、人生の残り時間は少ないのだもの。持てる時間と力をあわせて、この世に『最高傑作』を残して行きたいのよ――!

『おばぁさまの人形は、自分自身を愛してる、ただの自己愛の結晶ね』

 昨年のクリスマスに贈った赤いドレスをまとった人形を手に冷たく言い放った美しい孫娘に『祖母は偉大な人形師』なのだと、見せ付けてやる為に。
「おばぁちゃんは立派な人形師なんだから、好きな時に思い描いた人形を作ればいいよ。誰にも邪魔はさせないから」
 和実と名乗った謎の子供は、灯りもつけない、人形たちが無機質に笑いさざめく館で、子供らしさのかけらもなくにやりと笑った。

   ***

 苦手なバスにまで乗って隣町に赴き、散々歩き続けて、それでいて調査の結果は芳しくないので、燕雀探偵社の所長は帰宅してからもどこかしら不機嫌だった。探偵社の有能な秘書兼主夫が香りの良い紅茶を提供して、ようやく態度を軟化させたくらいだ。
「やっぱりガードが固いね。あんまり協力してもらえなかった」
 まゆらは定位置のソファに座りながら探偵手帳をめくりめくり、今日一日の収穫を振り返る。
 被害者と思われる数人の親を訪ねてみれば、はじめこそは胡散臭げに見られ、ついで『娘を探してくれ』と懇願され、あとは話の脈絡もわからないほどに取り乱して当時の話をしてくれるか、はたまた淡々と話をされるかの二極パターンだった。それでも、情報として回収できたことはけして多くはない。
 そうでなければ『娘さんは行方不明ですか』と口にするだけで頭ごなしにどなられ、蹴り出さん勢いの家もあった。それでも、なにかに怯えでもしている雰囲気が家を包み込み、ここもまた被害者なのだろうとロキが断言していたのが、まゆらにとっては不思議なのだった。
「女の子たちが行方不明になった時間帯は、朝もあれば夕方もあったり、習い事の帰りもあれば遊びに行く途中もあり、かぁ。場所もてんでバラバラよねぇ。隣町のあちらこちら」
 行方不明になった女の子たちの最終目撃現場は、路上、公園、図書館の近く、スーパーの駐車場……これまたバラバラだ。
 隣町の地図に目撃現場や自宅を描き込んでみても、共通点もみつからないし、あやしい図形が浮かび上がるでもない。
 通っている小学校にも共通点はない。同じ学校に通っているふたりがいたが、隣町の小学校の数自体がそんなに多いわけではないので、これは偶然の一致の範囲内だろう。
「年齢だけは共通してる。小学一年生から二年生。幼稚園児よりも行動範囲が広く親の目も離れ、尚且つ相手への警戒心が強くないギリギリの年齢層」
 ロキはまゆらの言葉を補足する。
 なるほど、そう言われれば、そう考えられなくもない。大人に悪意を持ってさらわれたと考えるのがこの上もなく自然な年齢層だ。
 今時の子供なので『お菓子を買ってあげる』の言葉でついて行く子はいないだろうが、『一緒にプリクラを撮ろう』ならありうるかもしれないとまゆらは納得しかけて、気分が悪くなってきた。
 これでは犯人がただの変質者になってしまうではないか。それでは後味が悪い。なによりもまゆらは『変質者探し』をしたいのではなく『不思議ミステリー』を追跡したいのだ。
「やっぱりこれ、警察向けの事件かなぁ。小さい女の子が誘拐されるって、一番考えやすいのって、その……イタズラ目的って考えるのが自然だものね」
 そうでなければ、最近はもう珍しく感じなくなってしまった、殺人願望者にさらわれて人知れず……かもしれない。そう考えて、またもやまゆらは気分が悪くなってくる。小さな女の子が傷つけられたり、ましてや死体なんぞ発見したくもないし想像だってしたくない。
 こみ上げてくる吐き気を飲み下そうと、片手を口元にやってまゆらは黙っていたのだが――……
「顔色が悪い」
 大丈夫? とばかりに顔を覗き込んでくるロキの視線に気がついて、まゆらはそれ以上後退できるわけがないと知りつつも頭をソファの背に押し付けた。
 お願いだから突然にそんな至近距離で覗き込んでたりしないで! 
 必死の願いも、吐き気の下に押し込まれて言葉にはならない。
「顔が赤いけど、熱でもある?」
 顔に触るのもやめて欲しい。額に額を当てるのもやめて欲しい。この上もなく近い距離はまるでキスされているようで――恥ずかしい。小さかろうが、大きかろうが、異性なのだから、尚更に。
「ろきくんってやっぱり触り魔だよね。普通こんなのしないよ」
 吐き気なのか恥ずかしさなのかもうわからないままに反抗するしどろもどろなまゆらを笑みひとつで封じ込め
「そりゃぁ普通はしないね、こんなの」
 熱をはかるついでとばかりに赤い額に軽く口付ける。まゆらがソファに座っているので、子供姿でも背伸びしなくても届く位置なのだからやりやすいなんぞとロキが考えているなどともちろんまゆらは知らないし気がつくはずもなった。
 それどころかまゆらは気持ち悪さまでもフリーズさせたかのように、全身を硬直させてしまった。なにかの電源が切れた音まで聞こえそうだった。
 ……これは意識もフリーズしてるな。
 ロキはやれやれと心の中でだけため息をつく。
 ……怖がらせたいわけじゃぁないんだけど、なぁ。
 先は長そうだ、と心の中でもうひとつため息を吐いた。

   【 五 】        

 

 まゆらがいないと比較的穏やかな雰囲気に包まれている燕雀探偵社は、ここ数日屋敷の主であるロキが不機嫌なオーラを発散しているので異様な雰囲気がそこかしこに見受けられた。
 それでも優雅な外観をしている燕雀探偵社らしく、探偵社の秘書兼主夫を担当している眼鏡をかけた背の高い青年は、主である少年の書斎机に日課になっている香り高い紅茶を提供していた。
「ヤミノ君、なんかこの依頼関係、異様に腹立つんだけど」
 隣町に調査にでかけてからこちら、数日間ロキはこの調子である。今も『とある線』からの報告を受けて書き記している書類のペンはとまらなくとも、同じくらい不満もとまらない様子だ。
 あきらかに年下のロキから『ヤミノ君』と呼ばれた闇野青年は、ロキの物言いに思わず苦笑する。
「ロキ様はこの手の事件がお嫌いですものねぇ」
 まぁ、この手の事件が好きな人もいないでしょうが、と続けた闇野に、まったくだ、とロキは『とある線』からの報告の続きを耳にしつつ同意した。こんな事件が好きだと言う輩は心底からの変態だろう。面白いことはなんでも好きだが、この手のものはそんな範疇にはないとぶつぶつ呟く。
 ロキが情報を受けている『とある線』とは――子飼いの情報屋でも噂好きの主婦の情報網でもなく、実は、目の前にふわふわと浮かぶ、白くてふにふにした『人ならざるモノ』だった。それどころか『この世ならざるモノ』でもあった。見える人と見えない人、触れる人と触れない人がいる、世界の境界線上に存在している『イキモノ』だ。以前ロキが手違いで召還してしまったのだ。
 とは言ってもそんなに恐ろしい存在でもなければ恐ろしい見てくれではない。強いて言えばうさぎに似ていなくもない造作につぶらな瞳をしていて、鳴き声は『ぷにゃん』なのだから気が抜ける。
 それでいて賢くて、壁なども通り抜けられ調査にはとってもお役立ちなのだから大したものだ。
 手触りだってぷっくりふにふにしてとても気持ちが良い。今で言う癒し系の『イキモノ』でもあった。
 ロキは目の前に浮かぶ存在たちを指して『式神』と呼んでいたが、彼らはここ数日手分けをしてロキの為に情報収集に勤しんでいたのだ。
 だが、彼らが情報をひとつ持ち帰るたびにロキの機嫌が悪くなっているのだから、さすがの癒し系『式神』も少々怯え気味だった。
 おどおどと怯えている『式神』に気がついたのか、ロキは『式神』を手招きしてその頭――とも胴ともつかない場所を優しく撫でてやる。途端に『式神』は普段通りに『ぷにゃぁ』と鳴いて機嫌を直した。
 ロキは『式神』から聞き出した情報にもう一度目を通す。事件の全貌は大体掴めた気がする。
「これだけ情報が揃ったし、そろそろ現場に乗り込んでみようかな」
 あまり乗り気はしないけど……と考えていると、かろやかなドアベルの音が響き、勝手知ったるなんとやら、まゆらが書斎へとやって来た。
「ロキ君、今日も調査に行くんでしょ? わたしも行くからね!」
 部屋に顔を出したかと思えば開口一番がそれなのだから、彼女もとことんと探偵業が好きらしい。探偵マニアの原点が幼少時代にあるだけはある、と感心するほどの入れ込みようだった。
 ちなみにまゆらは『式神』が見えない、触れない、聞こえない、おまけに気配のかけらすら感じられない人で、ドアを開けた勢いで『式神』の一匹を挟み込んだのにも気がついていない。
 彼女はそれほどの勢いで部屋にやってきたが、ロキが彼女の希望をなんでもかんでも受け入れるのかと言えば、また話が違うもので。
「まゆらは留守番。って言うか、今日から三日間うちには出入り禁止」
「………………えぇぇぇッ?!」
 いらっしゃいの一言もない上に書類から顔もあげずにロキはさらりとまゆらに告げ、まゆらはたっぷり五秒は凍り付いてから素っ頓狂な声をあげた。思わず闇野が苦笑したほどにコントめいたやり取りだった。
 とは言っても、当人たちはコントをしているつもりはちっともないのだ。特にまゆらには。
「ずるーいロキ君っ。ひとりで調査行っちゃうなんてっ。わかった、ミステリーを独り占めするつもりなんだっ」
 まゆらはぶぅぶぅと子豚よろしくブーイングを鳴らすが、
「言っとくけどねぇ、まゆら……っ」
「……なに、ロキ君?」
 まゆらの勢いを上から殺そうと珍しく口調を強めたロキであったが、言葉の途中で不自然にとめ……不機嫌そうに顔をぷぃと明後日の方向へと向けた。まゆらが恐る恐る名前を呼んでもむすりと押し黙ったままだ。
「とにかく、まゆらが期待してるようなものはこの件にはまったくないから、今日は帰りなさい」
 ロキはまゆらと顔をあわせたくないのか、不自然な方向を向いたまま。
 闇野と『式神』たちは不思議そうに目の前の光景に首をかしげるのだった。

   ***

 燕雀探偵社から不自然に追い出されたまゆらは、まっすぐ家に帰らずにぶらぶらと街を歩いていた。
 今は十二月も下旬。はっきりと言えば、明後日はクリスマス・イブ。街は目前に迫った『聖なる日』を祝う為――ついでに、祝いにかこつけて人々の購買意欲を盛り立てる為に賑やかに飾り付けられていた。
 あそこの店の前には白いクリスマスツリーに青と紫のリボンが。金色のモールを飾られている店もある。
 色鮮やかなキャンディみたいなディスプレイ、はたまた巨大な雪だるまを中央にそえたディスプレイは目に楽しく、街を歩いているだけでも沈みきった心がふわふわと浮上してくる。
 ケーキ屋はかき入れ時とばかりに大きな『クリスマス・ケーキご予約中!』のポスターをショーウィンドーに貼っていて、それもまたクリスマスらしかった。クリスマスなど微塵も関係なさそうな店も、理由をこねくり回してはお祭り騒ぎに参加している。
 そうだ、せっかく時間があいたんだもの、ロキ君たちのクリスマス・プレゼントを探そう。
 クリスマス・イブが終わるまでは『探偵社に三日出入り禁止』に引っかかるが、クリスマス当日ならば問題ない。いや、それ以前に、ほんの少しくらい顔を出すことまでも『禁止』とはいくらなんでもロキも言わないだろう。調査の為に完全不在で入れ違いになったとしても、それはそれ、仕方がないのだからその場合はあきらめられるのだし、顔を出すだけ出しに行こう。
 まゆらは徐々に前向きな気分になって、、セーラー服の上から羽織ったコートの裾をかろやかにひるがえし、ここ最近お気に入りとなっている雑貨とステーショナリーの店へといそごうとしたのだが……
「あれ、ロキ君……??」
 行きかう人の流れの雰囲気がふっとかわったような……とつられて視線を向けたそこに、まゆらはロキの姿をみつけて驚いた。なぜなら、子供の姿でも人目を惹く容貌をしているのに、店と店の間の細い道へと曲がっていった後ろ姿は大人のロキだったからだ。
 背の高い、薄い金色の髪をした人。モデルも芸能人も裸足で逃げ出すほど綺麗な人。他の人との見間違いではないと断言できるほどに、独特な雰囲気の人。
 人々はロキが消えた道へと視線を集め、時間を止めているみたいだった。
「ロキ君、なんで??」
 隣の町に調査に行ったのだと思ってたのに、どうしてこの街にいるのだろう? この街なんだったら、わたしも連れて行ってくれればいいのに。
 それよりもどうして大人の姿なのだろう。不意打ちを食らうとどきどきしてしまうあの姿で、どうしてこんなところを歩いているのだろう?
「ロキ君、最近なんだか変だよ」
 まゆらはロキが消えた細い道で立ち止まり――悲しくなった。
 街はこんなにも浮かれているのに、悲しいなんて、ヤだな。
 本当は、クリスマスを心待ちにしていたのだ。
 お正月よりもバレンタイン・デーよりも華やかで煌びやかで綺麗に着飾った街にあの出不精の探偵をひっぱりだして、一緒に楽しみたかったのに。
 できれば、大きな――ロキいわく、元の姿の彼と歩きたかった。
 手を繋いで欲しいとまでは恥ずかしいから言わないけれど、ちょっとくらいは恋人みたいに見えるようならほんの少し自信を持っていいかなとぼんやり考えていたのに、出入り禁止では意味がない。
 だいたいロキは大嘘つきなのだ、と思い出して、まゆらはとうにロキがいなくなった細い道の先にふくれっつらを向けた。
 ロキが本当は子供ではなくて、それどころか人間ですらなくて、遠い国の『特別な存在』で、ちょっとした罰を受けて子供の姿にされて、はじめの頃は『贖罪』の為に仕方なく探偵をしていた。
 そんな話を聞いたのは、ほんの一月前だ。それも本当に偶然の結果なのだ。
 いつものように燕雀探偵社に行った時に、ロキが書庫に入っていくのを見た。驚かせようと物影に隠れて待っていたら、書庫から分厚く重たい本を手に出てきたのは知らない男の人だった。
 あんぐりと口を開けて見つめてしまったらその人とばっちり目があった。
「あ、バレた」
 間が抜けた声であっさりとばらされたのは、彼の正体。
 声の高さが違っていても聞き間違えるなどありえない、ロキの声。髪や目の色が違っていても見間違えるなどありえない、ロキの顔。
 そこが燕雀探偵社である事実だけが、目の前の存在が『嘘』でも『まぼろし』でもなく、本当に『ロキ』なのだと知らしめる、自分の直感以外の確たる証拠だった。
 別に、ロキ君が子供じゃなくても、人間じゃなくても良かったのに、嘘つかれてたのはショックだった――と考えて、
『あぁそうか、ロキ君は嘘ついてたわけでもなかったのか』
 と気がついた。
 ロキは嘘をついていない、真実を伏せていただけだ。故意であろうとなかろうと。それは嘘をついたことにはならないだろう。
 嘘をついていないのと真実を言わないのはどちらが残酷なのかはわからないけれど、それももういい。聞かれなかったから言わなかった、混乱させるだけだから伏せていた、今までと違う態度に出られるのが怖かった――いくつも言葉を連ねられたらまゆらには勝ち目はないのだし、それらはロキがよくよく考えて導き出した答えなのだろうから。
 だけど、これ以上嘘つかれるのは――いやだなぁ。
 まゆらは無理矢理に細い道から視線を引っぺがして歩き出し、目的の店へと向かった。
 足取りはずるずるとしていて少女らしいかろやかさのかけらもなく、彼女の背中を無理矢理押すように陽気なクリスマス・ソングが響き渡っていた。

   【 六 】        

 

 そんな彼女の耳に、おっとりした声が転がり込んできた。
「あらぁ、探偵助手のお嬢さん?」
『お嬢さん』は街中にいくらでもあふれているが、『探偵助手』はそう簡単には転がっていない。
 呼びかけにつと振り向くと、そこには先日公園で出会った老婆が大きな紙袋を抱えて立っていた。おっとりした顔に似合うにこにこ顔でまゆらを真っ直ぐ見つめていて、ゆらゆら揺らいでいた気持ちが一瞬で引き立った心地がした。
「あ、この前の」
 とは言ったものの、たいした言葉はみつからない。なにせ、公園で二言、三言会話しただけなのだから。
「お買い物ですか?」
 無難な言葉しか出てこない。クリスマス仕立ての賑やかな店がずらりと立ち並ぶ一角で出会って、大きな紙袋を大切そうに抱えてにこにこしている人物に向けるにしては間抜けな言葉だろう。
「そうなの。そこの布屋さんにね、特別に手配してもらっていた布が届いたから引取りに来たの」
 小さな孫やひ孫のカバンか洋服でもつくるのだろうか、こんなにおっとりしたおばぁさんならそれも不思議ではない、と考えれば
「わたしね、趣味でお人形を作っているのよ。これは、そのお人形のお洋服にするつもりなの」
 紙袋から覗かせてもらった布は、小さな子供のカバンや洋服にするには重厚すぎる、滴るほどに鮮やかな真紅の布地にグレーの蔦模様が芸術的に編み込まれた高価そうな布だった。ところどころに金色の花が咲いているのが美しい。きっと、その筋では有名な海外ブランドの品物なのだろう。
 他にも、黒一色にびっしりと同色の刺繍糸で模様を描き込まれたものや、光沢のある紺色の薄布、繊細なレースの束、愛らしい飾り紐などが次々と取り出される。まるで、中世貴族の娘の衣裳部屋を覗いている気分だった。
「わぁ、すてき」
 こんな布地で服をつくるのなら、今流行のスーパードルフィーとかかもしれない。子供大の、精巧なドールだ。まゆら自身は集めたいと思うほどに興味はないが、友達のひとりが幾つか集めていて、家に遊びに行った時に長い時間眺める程度には興味があった。
「そうだ、今から時間あるかしら? 実はね、あなたと同じくらいの年の子にあげるクリスマス・プレゼントのお人形に着せる服の布を選ぶのだけど、どうにも決め手がなくってね。もし良かったら、今からアトリエに来て一緒に布を選んでくれないかしら? とっても美味しいケーキも買ったのよ、ご馳走するわ」
 老婆はこの上もなく良い思いつきをしたとありありとわかる笑顔でまゆらを誘ったあとで、
「いやだ、わたしったら! 名前も知らないお嬢さんにいきなり『うちに来て』だなんて。おばぁちゃんの戯言だと思って許して頂戴ね」
 ころころ表情がかわる老婆を見ているのは、まゆらにとって楽しかった。年をとったらこんな可愛いおばぁさんになりたい、老いは怖いものではないと思わせる雰囲気が彼女にはあった。
 まゆらにも自然に笑顔が戻った。
「わたし、まゆらって言います。大堂寺まゆら。おばぁさんのアトリエ、とっても興味あります」
「まゆらちゃん? かわいい名前ねぇ。わたしはね、前川里子って言うのよ。でも孫たちは『おばぁちゃん』って言ってくれるわ。わたしもそっちの方が好き、だって『おばぁさん』より可愛いじゃない? おばぁちゃんの運転でも良かったら、あそこの駐車場に車があるの。ここから十五分くらいのところがうちなんだけど、いいかしら?」
 ピンクの車なんて年を考えろって孫たちから言われるんだけど、まゆらちゃんにならぴったりの車よねぇ。
 老婆はにこにことしたまま駐車場の方向を指差し、足取りも軽く歩き出した。
 まゆらの心の中にあった暗い感情は老婆の明るさによってかき消され、今はもう街の雰囲気に溶け込むほどにハレの気分で占められていた。もちろんその中には――『警戒心』の暗い色はひとしずくも混ざってはいなかった。
『前川里子ってどこかで聞いたことがあるような――』
 そんな疑問もあっさりと明るい気持ちの中に溶けて消え去り、まゆらは里子の後に続いて駐車場へと向かうのであった。

   ***

 表通りは来るクリスマスの賑わいにあふれてはいても、一歩奥に踏み込めばどこの街であろうとも大概は普通の雰囲気――いや、どことなく退廃的な雰囲気が立ち込めているものだ。
 明るい雰囲気に包まれた表通りが文字通り『表の世界』であるならば、裏通りは『裏の世界』なのだから。
 そして、祝いの日が表の世界の習慣であるならば裏の世界にとってはなんの関係もないのだから、この界隈は常に一定の澱んだ空気に満たされていた。
 ロキは黒いロングコートに身を包み、常の人であるならば息苦しささえ感じるだろう細い路地を進んでいた。
 小さな窓や小さな出入り口、そしていかがわしい金融業者やなにかもわからないオフィスなどの看板がせせこましくぎっしりと詰め込まれた路地が裏世界であるのならば、その世界の住人たちも表の世界から弾き出された者ばかりだ。ある者は強者として裏の世界にみずから進んで入り、ある者は表の世界にもいられない弱者として裏の世界に転がり落ちてきた。
 どちらにしても、この裏世界の闇がどれだけ暗く深くよどんでいようが、その世界の住人がどんないきさつでそこに巣食っているのだとしてもロキにはまったく関係がなかった。
 関係があるのはただひとつ。目的の場所――五階建てビルの四階にある、とあるオフィスだけだ。
 細い路地に入り込んだおのれを、他のビルの住人が興味深げな、または胡散臭げな視線で眺めているのだと知りつつも、ロキは頓着せずに歩き続けていた。なにせ『ある目的』の為にわざと大人姿でやって来たのだ。そしてその姿が様々な理由で人目を惹くのだとは昔から知っている為に、視線の十や二十、気にするのは今更と言うものだ。
 とは言っても、内心では『やっぱやめよっかなー』と往生際悪く考えてもいた。なにせ、目的地にいらっしゃるヒトビトは、はっきりと言って直接梅沢家より依頼を受けた件とは関係がないヒトビトであるので、回れ右したところでどこからも文句は出ない。
 それにも関わらずロキがそこに乗り込もうとしているのは、個人的に不機嫌にさせた責任を取らせる為だった。ようするに、ロキが大人の姿でそこへと向かっている理由は――全力で暴れる為、だ。
 それはまた、まゆらを『出入り禁止』にした理由でもあった。そこには、彼女が望む『不思議』も『ミステリー』もかけらもなく、ただ胸糞の悪い、この上もなく現実的な事象が転がっているだけであり、ロキ自身も『不思議』も『ミステリー』も関係なく、この上もなく現実的な行為によって事象に介入するつもりであった。
 内心では相反する葛藤をしつつも顔だけはいつも通りすまして道を行くロキの前に立ちはだかる存在があらわれたのは、一際背の高い建物に太陽の光が遮られ、深い闇が落ちた一角だった。
「やぁヘイムダル、やっぱりキミが関わってるんだ?」
 おざなりの挨拶に続いて、説明もなにもあったものではない質問をいきなり突きつけたロキへ、ヘイムダルと呼びかけられた阻害者は笑った。それは驚いたことに、物騒な路地には似合わない子供――はっきりと言えば、前川里子の家にあらわれ彼女に『和実ちゃん』と呼ばれていた子供だった。
『ヘイムダル』こそ彼の本当の名前なのだと、ロキは知っていた。
 彼は、ロキが元いた世界――『北欧』と一般的に呼ばれる地域の『特別な存在』たちが集う場所からの腐れ縁――ヘイムダル自身も『虹の橋』と呼ばれる大切な場所の門番としての特別な地位と力を持った『人ならざる者』――ではあるが、とある件により激しくロキを敵対視し、こんなところまで追いかけてきたのだ。
 今まで仕掛けられた大なり小なりの企てごとの数を数え上げれば軽く一時間は経過しそうなほどに反目しあっている関係だった。もちろん、用もないのに顔を出したり、穏やかに会話をする間柄ではけしてなかった。
 今回も、不自然に伸ばした前髪から覗く隻眼には友好的とはほど遠い感情が浮かんでいるのが見て取れた。
「こんにちは、ロキ君。こんな怖いところでなにしてんの?」
「ちょっとそこまでお使いに」
「へぇ、僕も一緒していいかなぁ。多分同じところに用があるんだ」
 よくもいけしゃぁしゃぁと言えるものだ、とロキはある意味感心する。
「そう? でも、キミが蒔いた種じゃないの?」
「だから刈り入れ時だと思ってね。見物しに行こうかなって」
「刈り入れられると思ってるのかな?」
 まぁ、人間ごときにお前が刈り入れられるとは思っちゃいないけど。
 ヘイムダルは子供らしくない仕草で肩をすくめてみせたが、彼にはなによりも似合う仕草でもあった。
 そして、
「木を隠すなら森の中」
 謎の言葉を残して姿を消した。どうやら牽制しに来たわけでも、阻止をしに来たわけでもないらしい。
「……気がついてるよ。まったく、昔からやること成すこと陰険と言うかえげつないと言うか」
 この先の『ヒトビト』はヘイムダルにとって無価値な『捨て木』に過ぎないのだとわかって、ロキはさらに虚脱感に襲われる。これで一体何件目の『捨て木』だろうと考えて心底嫌になった。
 この件に『不思議』や『ミステリー』が関わっているとすれば、ヘイムダルの作為が少なからずそこにある、その一点でしかない。それ以外は、この上もなく現実的で人間的な事象で、ある意味事象が発生する種は元からそこに存在し、ヘイムダルはそれに水を注いで育て上げたにすぎないのだ。それ故にロキは不機嫌の底辺をこれでもかと掘り下げ続けていた。
 ロキは悪態を吐き捨てて、癪に障るヘイムダルとのやり取りの不機嫌も目的地にいるヒトビトで発散させようと決めた。
 目指す五階建てのビルは、これからピンポイントで直撃する物騒な人型台風の到来に気がついたのか、一層と陰気な雰囲気に包まれていた。

   【 七 】         



 ピンク色の軽自動車はゆっくりと、それでいてかろやかに街を走りぬける。
 隣町と言ってもたいして距離はないし劇的な変化があるわけもないが、たどり着いたその区域は閑静な住宅街で、ほんの少しだけ雰囲気が違って見えた。
「前川人形館……」
 街中に突如現れた異国風の民家を囲む塀に掲げられた表札を読み上げて、まゆらはゆっくりと考えた。
「やっぱりどこかで聞いたことのある名前だと思ったら! 『あの前川里子』さんなんですね??」
 古き良き日本探索や職人・芸能紹介のテレビや雑誌で何度も名前を見たことがある、とまゆらは思い出した。『前川里子』と言えば、海外の本職にも認められている有名な人形作家だったはずだ。確かに、この近辺に展示館があると噂で耳にした気がする。人形好きの友達がパンフレットを持っていたのを見せてもらった記憶もかすかによみがえる。
「えぇそうなの。『あの前川里子』なの。でも引退しちゃったから、今はただのおばぁちゃんよ」
『あの前川里子』呼ばわりされるのにも慣れているのか、軽く笑って気軽に招き入れられたのは、裏にある、一回り小さな建物だった。
 中に入れば、そこが居住区域ではなく『アトリエ』であるとすぐに知れた。アトリエと言うよりかは、実験室と調理室を足して二で割った感じでもある。大きくとられた作業台が設置され、その上には計量器やゴムベラ、スポンジやボールなどの見慣れたものが置かれていた。それとは別に、なにやもわからない材料や道具が箱におさめられ整然と棚に並んでいる。ワックスや粘土だろうか、独特な匂いが鼻につき、空気に色がついている錯覚さえ起きそうだった。
 一際見慣れないのは、部屋の隅に置かれている白い箱型。
「それはね、焼成炉って言うの。ここは簡易アトリエだから小型のしか置いていないのだけど、それでも充分なの」
「ショウセイロ?」
「ガスで部品を焼いて成型するの。だから焼成炉」
 あぁ焼成の意味なのか、とまゆらはぼんやりと合点がいった。人形つくりとはなかなか大仰な作業らしい。
 まゆらの日常生活となじみのあるもの、ないもので占められたアトリエの中にも漂うおっとりとした雰囲気が、この場所が里子のテリトリーであるのだと知らしめていた。窓には明るい色のカーテンが引かれ、昼の光を遮りながらも明るい色を落とし薄い影を穏やかに作りだしていた。
 そんな作業場然とした部屋の中に、まゆらは焼成炉以上に不自然な物体を見つけて足をとめた。
 いや、それは不自然でもなんでもなかった。机の上に前足を投げ出す格好で置かれていたのは、里子の作品なのだろう、銀色の髪を長く垂らした可愛らしい少女人形だった。今にも動き出しそうな薄桃色の唇、今にも瞬きしそうな長いまつげに縁取られた神秘的な紫の瞳でまゆらを見返している。
「その子なのよ。クリスマス・プレゼント用に作ったのは」
「でもこの子、服着てる……」
 たしか、クリスマス・プレゼント用の新作に着せる服の生地を今から選ぶのではなかったか……。
 まゆらが戸惑うのも無理はなかった。銀色の髪をした少女人形には、もうこれ以上はないと思えるほどに美しい白いドレスが仕立てられていたのだから。
 この白い頬をした紫の瞳の人形には、滴るほどの真紅も、闇よりも艶やかな黒も、夜明けを待ち焦がれる紺の色も似合わないとまゆらでさえもわかるのに。
 戸惑っている間にも里子はどこかからか箱を大切そうに抱えてきた。小柄な老婆の手には少々余る、大きな箱だった。
「えぇそうなの。その子もドレスも素敵でしょう? わたしの最高傑作。まゆらちゃんにお願いしたいのは、こっちの子なの」
 なぁんだもう一体あったのか、と里子が取り出した箱の中から出て来た人形と対面して……まゆらは、戸惑いを通り越して思考をとめてしまった。
「この人形――……」
 里子の言葉通り、箱から出て来たのは服を着せられていない人形だった。
 胴体や肘膝、手首、足首などが可動式になっている『球体関節人形』と呼ばれるタイプの人形だとはまゆらにはわからなかったが、服を着ていないだけで『可愛らしい人形』からいやに生々しい異形を見ている心地すらする。顔だけは精緻な人形でありながら、体はあまりにも不自然で、そのアンバランスにくらくらする。
 いや、まゆらが思わず思考をとめてしまったのは――その人形がどことなくロキに似ていたからだった。白い胴体部分に少女めいたふくらみがない点や、隣の少女人形に比べて頬の丸みが若干薄いことからそれが男の子の人形なのだとはわかるけれども……光さえも溶かした漆黒の髪は肩先に触れるくらいの短さで、やや伏せ加減の目は血よりも深い赤、白よりも透き通った肌の色をしていたが、それは本当にロキを髣髴とさせて……先とは別の意味でくらくらしてしまう。
「気がついちゃった? そうなの、あの探偵さんを見てね、この子を作ろうって決めて年甲斐もなく徹夜しちゃったの」
 硬直したまゆらをよそに、里子は歌でも歌っているかのような楽しげな口調で話をしている。そこには、なんの秘密もありはしなかった。
「それでね、それでね。こっちの子と並べてみたら、とってもお似合いだと思わない? わたしね、あなたたちふたりを見た時からこの子もまゆらちゃんに似てるなぁって思ってたの。目元とか口の感じとか、頬のラインもそっくりだわ。まぁ、なんて素敵!」
 そうだ、どことなくこの白い娘人形はわたしに似てる――まゆらはぐらぐらし始めた頭でぼんやり考える。
 なんだろう、この、湧き上がってくる不安感は。
 この人形は怖い、恐ろしい、危険だ――……
 ぐらぐらする気持ち悪さの中に徐々に広がっていく不安感と恐れに、まゆらはぎゅっと両目を閉じた。
 なぜだろう、どうしてだろう。おっとりしたおばぁちゃんが作った人形が怖いだなんて。
 ただの人形なのに――女の子の人形がわたしに似ているのはただの偶然で――
 男の子の人形がロキ君に似ているのはモデルがロキ君だからで――
 それは本当に偶然に過ぎないのに――……
 まるで魂が吸い取られる気がするのは、なぜだろう――……
 怖いのに人形の目から視線を外せない――……
 人形に意思はないはずなのに、女の子と男の子、二対にじっと見られてる――見られ続けている――……
 雲が太陽を遮ったのかな、いやに部屋が暗く見えるのは――どうして……??
 
   *** 

『木を隠すなら森の中』とはよく言ったものだ。
 ロキは、ヘイムダルが作り出した『森』の木を一本なぎ倒した足で、もう一本がどっしりと根を下ろした場所へと向かっていた。
 もちろんその前には、五階建てビルの四階へと警察が来るように手配するのも忘れなかった。
 謎の通報により駆けつけた警官たちは、めちゃめちゃに荒らされたあやしい事務所と倒れ伏した男たちを発見するだろう。そして、奥の部屋に監禁された数人の少女の存在に驚くだろう。
 なんでも『金儲けした方が勝ち』的な風潮に満たされたこの日本では、ひどい話ではあるが、幼女と言っても言いすぎではない小学生一・二年の子供たちですらその事務所にたむろっていた男たちにとっては単なる金を生み出す道具だった。
 性的なことなどなにひとつ知らない彼女たちの裸体写真がインターネットをはじめとする媒体を通じて売買されるのはまだ良い方で、彼女たちを完全な性的対象とすることだって珍しくはないのだ。
 ロキが乗り込んだのは、彼女たちがまとめてその道の者たちに引き渡されるたった数時間前の出来事であった。そしてその事実は、ここ数日ロキを不愉快にさせていた一因でもあった。
 ロキは別箇所に向かいながら、調査報告を脳裏で読み返す。
 今から向かうのは、若い男がひとりで暮らすぼろアパートだ。
 ただの若い男であればロキの眼中にはないが『式神』たちの調査によれば、その男は幼児愛好狂で、そこに行方不明の女の子がひとり監禁されているはずである。今はまだひどい暴行は受けていないが、いつ犯人は態度を一変させるかわからない。昨今の事件を思い起こすに、若い男に理性など求めるべくもなかった。もっとも理性があるのならば女の子を監禁するなど元からありえないだろう。
 しかも、そこが終わればまた別場所におもむかねばならない。社長の娘が監禁され身代金の受け渡し交渉をしている、誘拐犯の隠れ家だ。交渉が決裂しない限りは命は保障されるだろうが、これも『捨て置く』のはさすがに後味が悪い事件だろう。
 その次は、子供に恵まれない夫婦にさらわれた女の子の救出……
 一体何時間かかるのか考えるだけでも頭痛がしそうなほどの件数と、わざと運動させようとでもしているのかと文句を言いたくなるほどに広範囲で事象は発生しているのであった。
「木を隠すなら森の中って言っても、ホントえげつない」
 ヘイムダルは人々の欲望をほんの少しつついて、夢想を実現へとかえる決心をつけさせただけだ。ヘイムダルが最初から最後まで悪いわけではないとわかりながらも、やはりぶつぶつと悪態をつくのはやめられない。
 それに、それだけ『森』の全容がわかっていながらも、ロキが捜し求めているたった一本の『木』にはまだ辿りつけていない。
 ヘイムダルがなにを隠しているのか、ロキにはまだわからなかった。

   【 八 】   


 

 それは春の記憶だろうか。
 頬を撫でる風はゆるゆるとしたあたたかさに満ち。
 木々の葉を透かして零れ落ちる光はやわらかい。
 まゆらは神社の渡り廊下に足を投げ出し、太い木の柱に背中を預けて座っていた。板張りの床ははじめこそひやりとしているが、すぐに体温でぬくぬくとするのだとまゆらは知っていた。
 まゆらの膝の上には大きな絵本があり、色鮮やかな表紙絵をじっくりと堪能しているところだった。
『かわいいお姫様のお話』
 いかにも子供が、特に女の子が好きそうなタイトルだ。
 まゆらはワクワクしながら小さな手で表紙をめくり、物語のはじめの言葉をつたない口調で読み上げる。
「むかし むかし あるところに 小さな女の子がいました……」


 昔々あるところに、小さな女の子がいました。
 大きな大きなおうちに生まれた、たったひとりの女の子です。
 その女の子は、家の人から、町の人から、いつも『かわいい』『かわいい』と言われて育ちました。その女の子は本当にかわいらしかったのです。
 女の子のおうちはとてもお金持ちだったので、女の子はなに不自由なく大きくなりました。
 女の子は童話に出てくる幸せなお姫様みたいに、なんの悩みも苦労もなく大きくなりました。
 けれども女の子が十五歳になった時、女の子のお父さんが突然病気になって死んでしまいました。
 女の子はおうちの為に、顔もみたことない男の人と結婚しなさいとお母さんに言われました。
 女の子はとても素直だったので『いやだ』と言うかわりに『はい』と言いました。
 女の子は『いやだ』と言ってもいいのだとは知らなかったのです。
 知っていたとしても『いやだ』と言える状態ではないのだと、女の子は気がついていました。
 なぜなら、女の子のおうちは本当に大きな大きなおうちだったからです。たくさんの人がそのおうちにいました。そのたくさんの人たちに食べさせて、お給金を払って、きちんと働いてもらうのは、とても大変なことでした。
 それは、大きいとは言え、農家から嫁いできたお母さんひとりではできないことでした。しっかりとしたおうちの『後ろ盾』がないと、みんなは女の子のおうちで安心して働けないと言いました。
 女の子はしっかりした『後ろ盾』の為に、お母さんのお願い通り『はい』と言うしかなかったのです。



「童話に出てくるお姫様の物語は本が最後のページにくれば幸せなまま『おしまい』になるけれど、現実にはそんな幸せだけの物語ってないのね」
 かつて『かわいいお姫様』『幸せなお姫様』として暮らしていた里子は、十六の年には夢から醒めていた。
 いくら『かわいい』と言われても、現実にはそんなものはなにひとつ役に立たなかった。
 小さな頃から憧れていた家の書生さんも、かわいいとは言ってくれるけれど、想いを返してはくれなかったし。
 嫁いだ先では誰も『かわいい』とは言ってはくれなかったし。
 旦那様となった男は粗暴だった。直接手をあげることはなかったが、精神的には暴力を振るわれたにも等しかった。他所に何人も妾を持ち、事業を好き放題に展開させては里子の家から金を出させた。
 それでも時代が時代であるので、子供を生み育てじっと家を守っていた里子に転機が訪れたのは、二十歳前だった。
「これからは日本ではダメだ。海外に行くぞ」
 その一言で一家揃ってヨーロッパに渡った。そこで里子はビスクドールに出会ったのだ。
 それからは子供も旦那も家もなにもかもを放り出して人形作成に没頭した。気軽に話せる日本人すらいない異国では、他にすることもなかったのだ。
 だが、その閉鎖的な環境が里子の才能を開花させる。
 はっと気がつくと、里子は名の知れた人形作家になっていた。
『サトコ マエガワの人形は愛らしい上にも愛らしい。夢の世界から抜け出たようだ』と評価されたのだ。
 かわりに旦那は他所に女をつくり完全な別居生活になっていたが――里子はもうなにも気にしはしなかった。
 これからは、可愛らしい人形とずっとずっとずっと暮らしていくのだから。
 喋らないかわりに嘘をつかない、動かないかわりに逃げない、裏切らない人形たちと、ずっとずっとずっと。


「里子おばぁちゃん、ずっと人形と暮らすの?」
 春の光が落ちる神社の渡り廊下で絵本を読んでくれた優しい祖母を見上げて、まゆらは小首をかしげた。
 里子が読んでくれた絵本は後になるほど幼いまゆらには理解ができない内容だったので、音の響きと鮮やかな絵を楽しんでいただけだ。
 その中でまゆらがやっと理解できたのは、女の子は大人になって、それから人形とずっと暮らす――その一点だけだった。それから、絵本の中の女の子が祖母と同じ名前だったので、この絵本は里子がつくったのだろうことだけ。
「本当はねぇ、そう出来たら良かったんだけどねぇ……」
 里子はおっとりと言葉を紡ぐが、それはまゆらが向けた質問の否定になるのだとまゆらにはわかるはずもなかった。
 まゆらはわからなかったので、里子の膝の上からおり、かわりにそこにちょこんっと頭を乗せた。絵本を読んでもらったので眠くなってきたのだ。
 木の葉を透かして落ちる光もゆらゆらと揺れてまゆらを眠りへと誘っており、小さなまゆらに抗う術はない。ゆらゆらとまぶたが落ちてくる。
 里子はさも当然のように、まゆらの長い髪を手櫛で梳いた。子供特有の癖のない長い髪がさらさら さらさらと梳かれ、時折春の風に乱される。
「ねぇまゆらちゃん、まゆらちゃんの夢ってなぁに?」
 優しい手はそのままに、祖母が孫に問いかける。まゆらちゃんは大きくなったらなにになりたい? と問うのはなんら不思議な光景ではないだろう。
 まゆらはぱっちりと目を開けて里子の顔を見上げ、にっこりと笑った。
「探偵さん! だって探偵さんってすごいんだもん! じけんのことはなーんでもわかっちゃうんだよ」
 まゆらは即答した。大きくなったら探偵になる。それは彼女の中では夢でもなんでもなく、確固たる未来図だ。
「あらあらあら、まゆらちゃんなら可愛いお嫁さんとかだと思った」
 まゆらは、んーと指をくわえて考え込んだが……
「探偵さんになってお嫁さんになるか、探偵さんのお嫁さんになるの」
 それも、彼女の中では矛盾のない未来図だった。
 髪を梳く手はまゆらの楽しい『夢』の話の間もとまることなく、優しい感触ややわらかい陽射しにまゆらは再びうとうととしはじめた。
 穏やかな穏やかな時間はゆっくりと流れ、まゆらの意識はふわふわと黒い夢に落ちていった。

   【 九 】



 まゆらが夢の中の夢で春の光を全身に浴びてうっとりとまどろんでいたとしても、現実世界はしっかりとした冬の世界で、時間は夕方を大きく過ぎ、時計は九時を指し示そうとしていた。
 たくさんの予定を手際よくこなして、多少はすっきりとしたロキが燕雀探偵社へと戻ってきたのと同時に、外は星も月もすべて隠しやるほどの分厚い雲に覆われ、叩きつけるかと思えるほどの雨が降り出した。
 ゴウゴウとうなる雨音と風の音は一種異様で、書斎にふわふわと浮いていた『式神』はロキの子供特有のやわらかい髪の中に隠れようとでもしているのか、身をちぢこませてはどんどん後退しようとして何度も滑り落ちそうになっていた。
 わらわらと何匹もが集まってくるのでロキの頭の上はかなり面白い状態になっていたのだが、ロキは書斎机の上で両の手の平を組み、軽く顎を乗せて考え込んでいるばかりであった。なぜならば、半日かけて『森』を形成する余分な『木』を一本一本除去しても、隠されている『木』のありかはみつからなかったからだ。
 ……単なる嫌がらせに過ぎないのか? ありもしない『木』をさも自分が隠したようにヘイムダルは振る舞っているだけなのか? 
 その考えもある意味ヘイムダルらしかった。ありもしない『事件』を探し回っても一生見つかるはずがないのだから、その右往左往振りはヘイムダルにとっては面白いものになるだろう。
 だが、とロキは即行で否定する。梅沢家の娘は確かに行方不明になり、梅沢家から依頼が来ているのだ。その依頼は虚構ではないし、ロキが八方手を尽くしても彼女に関わる事象のかけらも発見できていない。
「勘違いだろうか……」
 それとも、事件性はまったくないのだろうかと考えて、それも有り得なくはないが……妙なひっかかりを感じるのも事実だ。
 その時、頭の上でちぢこまっていた『式神』の一匹がなにかに気付いたのか、ふわりとロキの頭から飛び立ったかと思うとカーテンを閉めているにも関わらずその向こう側へともぐりこみ、夜と雨の黒に染まった外の世界に目を凝らしている。
「どうしたの、えっちゃん?」
 とってもお役立ちでえらいから『えっちゃん』と名付けた『式神』がなにかに気付いたその一瞬後に、雨の音の隙間をぬって響いたのは――来客の合図だった。
「こんな時間に誰が……」
 一階に居た闇野がいぶかしみながらも玄関を開けて発見したのは――
 どこかしら見慣れた学生カバンと白いドレスの人形を両腕に抱えた、長い黒髪をぐっしょりと濡らした、見知らぬ女の子だった。
 血色がなくなるほどの長い時間雨の中を歩いてきたのだろうか、闇の中にぼぅと浮かび上がる顔色の悪い少女の姿は異様で、なにごとかと階段をおりてきたロキも一瞬息を飲んだ。
「ここ……たんていしゃ? だいどうじまゆらさんの知り合い?!」
 寒さと疲労に震える声は、驚くほどよく響いた。
 ロキは、なにかの歯車がカチリと音を立てて動き始めたのを感じた。

 
 部屋に招き入れ、ひと心地ついた女の子は
「コウキ。葛城香姫」
 と名乗った。
 水気をぬぐった下からあらわれたのは、はっとするほどに美しい造作の少女だった。
 年の頃は十二・三だろうか。年のわりには大人びた頬のラインや強い目元には、雨に打たれて蒼白であっても人目を惹くものがあった。
 発展途上の伸びやかな肢体が、闇野から借り受けただぶだぶの服に包まれている。大人になるのを待つまでもなく、あと二・三年もすれば誰もが振り返る、空気を祓うような美少女になるだろうとロキでさえも楽しみな雰囲気を持っていた。それも、ふわふわとした優しく甘い美少女ではなく、しなやかな若木の強さを持った存在になるだろう。
 ただ、彼女の来訪はあまりにも唐突だった。
 香姫が持っていたのは、白い人形と学生カバンのただふたつ。
 香姫は、燕雀探偵社の探偵が大人の闇野ではなく子供のロキであることにさらに不安そうな顔になった。
「これ、だいどうじ……大堂寺さんのものだよね。大堂寺さんって……髪の長い女子高生、であってる??」
「コウキちゃんは、まゆらの知り合いじゃぁないの?」
 おのれの行動や発言に自信なさげな香姫の様子に、ロキは違和感を抱かずにいられない。まゆらにお願いをされてここまで来たのかとも考えていたが、どうやらそうでもないらしい。
 香姫は首を振った。
「うぅん、直接には、知らない。ただ――おばぁちゃんのところであたし、見たから――」
 大堂寺さんらしき女の人が、倒れてるところ。
 熱の戻らない両手で包み込むようにして持っているココアがなみなみと注がれたマグカップの中に、不安定な言葉がぽつりと落ちる。
「まゆらが……??」
「あたし、今日の夕方おばぁちゃんのところに行ったの。そしたら、知らない女の人がアトリエに倒れてて……部屋の中の様子もなんだかおかしかったし、怖くなって、そのカバンと人形ひったくって逃げてきたの。でもこのままじゃいけないから、とにかく大堂寺さんの知り合いに連絡しないとって考えて……カバンの中のアドレス帳にここの住所があったから……。おばぁちゃんの家、隣町だし、このあたりのこと全然知らないからタクシーで来たんだけど、途中でお金がなくなっちゃって……雨もひどく降ってくるし……」
 大人びて見えてもやはり中学生なのだろう、雨の中、知らない街の知らない人のところへと来るのはやはり緊張の連続であったらしい。香姫はココアを手にふるりと震えた。
 その前に、異様な光景を目撃した――もしかしたら身内が犯罪行為を行った、その可能性も含めて考えていたから、彼女がいろいろなものを怖がっているのもうなずける反応だった。倒れているのは、眠っているのだろうか。それとも気絶しているのだろうか。まさか死んではいないだろうか――それすらも確かめるのが怖かったのだろう。
 まゆらの家に連絡をとってきた闇野が、ロキへと静かにうなずいて見せた。まゆらの不在は本当であるらしい。
「それ、本当にまゆらだったの……?」
「カバンの中にあった生徒手帳の人、だよね。だったら、そう。ちょっとしか見なかったんだけど、その人、目を閉じてたからはっきりとは言えないけど、同じ制服着てたし……うん、やっぱり同じ人」
 嫌な予感がする。もしかしたら自分はなにか見当違いをしているのではないだろうかとロキは感じていた。
『森』の姿が浮かび上がってきたので、その中からたった一本の『木』を探し出さなければいけないと思っていたが――本当は森の中に咲く一輪の花を探さなければならなかったのかもしれない。
 上ばかりを見ておのれの足元を見ることを忘れていた、とロキは気付いた。
 もしかしたら――ヘイムダルが真に隠したかったのは、香姫の『おばぁちゃん』なのかもしれない。
 それに、闇野が水気をぬぐって衣装を調えた白いドレス姿の少女人形も一種異様だった。
 作り物の『ヒトガタ』とは思えないほどの生々しさが感じられてならない。白い頬は生まれたての赤ん坊のようで、赤い唇は今にも開き言葉を発しそうだ。
 紫色の目はなにかを訴えてでもいるのかじっとこちらを見つめているが、無機物に眺められているだけであるのに妙に視線を感じて気持ちが悪い。
 人間の魂を無理矢理に押し込めればこんないびつな人形が出来上がるのではないだろうか。この手の人形特有の、なにを考えているのかわからない微笑がないだけに、気持ちが悪かった。
「おばぁちゃんはおかしくなってるの。あの人は――自分自身しか愛してないの、真っ直ぐに。狂ってるって思えるほど。そう言うの、盲目的にって表現するんでしょう? それとも、狂信的に?」
 人形つくりに一生をささげ、誰よりも人形を愛している天性の人形師。
 その仮面をかぶりながらも、人形ではなく、それを生み出した自分自身を愛しているのだと香姫には思えてならなかった。里子にとっての『人形』とは、すなわち自分自身なのだ。
『わたしは綺麗なもの、可愛いものが好きなんですよ』
 対外的に口にしていた言葉を周囲に肯定させる為、身内で一番美しいとされている香姫を盲目的に可愛がっていたが――それは単なるフリで、その底にはなんの愛情も感じられなかった。だから香姫は里子が嫌いだった。
 怖いと言うよりかは、気持ちが悪かった。歪み切った老婆の姿は、潔癖な年頃の少女にとってこの上もなく汚らわしかった。
 つぐみのように、世間に高く評価されている曾祖母を陰で支えて満足感を得るなど香姫にはできなかった。世間に評価されている『前川里子』に可愛がられているひ孫の立場を喜ばしく感じられたら彼女にとっては幸せだったかもしれないが、それはもう永遠に有り得なかった。倒れ伏していた女子高生と、禍々しくしか見えない人形を見てしまっては、もう。
「今からそこに案内してもらえる?」
 外では雨と風が荒れ狂い不穏な空気が渦巻いており、闇野が手配したタクシーのヘッドライトだけが闇に抗って光を振りまいていた。

   【 十 】



 ロキには、本日いっぱいかけて解決――闇野あたりから言わせれば『単なる殴り込みのストレス発散』――してきた様々な犯罪行為と、梅沢波音の件は別件なのだとすでにわかっていた。
 なぜなら『誘拐された複数の子供たち』は行方不明になってからずっととらわれたままであったが、波音は違ったのだ。行方が知れなくなっていたのはたったの二日。三日目の朝には、家のすぐ近くで無事に発見されたのだ。
 だが、彼女はその間の出来事はなにひとつ覚えていなかった。
 それにおかしな点はもうひとつあった。
「大きくなったらなにになりたい?」
 との質問に、
「あたし、大きくなったらこくさいてきなピアニストになるのが夢なの!」
 いつもほがらかに夢を語っていた彼女がピアノのことも夢のこともすっかりと忘れ、無気力な視線を宙に向けるばかりの状態になってしまった点だった。
 梅沢家から依頼されたのは、彼女がどうしてそうなってしまったのかの調査依頼だった。犯人がもしいるのだとすれば犯人探しになるのだろうが、母親としては夢も気力も失った我が娘を正気に戻らせるきっかけが欲しかったのだろう。
 波音の件だけが、他の少女たちと違って『はっきりした犯罪性』に薄いのだ。
『森の中に隠れた花』のごとき違和感は、もうロキの前で黒髪の少女が指差す異国の民家風の形をとって存在していた。

   ***

「ない、どこに行ったの……!」
 里子は薄暗いアトリエの中を蒼白な顔で荒らしまわっていた。
 小さなランプ型の照明ひとつがオレンジ色をしたいびつな輪の形をした光を投げかけて照らしているので、里子が動き回るごとに雨の唸りとも相まって悪魔のように反対側の壁に影がうごめいた。
「ない……そんな!」
 だが、どれだけ探し回ろうとも『冬の娘』は見つからなかった。
 部屋の隅にはまゆらが倒れ伏したまま、身じろぎひとつしない。顔色は人形よりも白いくらいであったが、呼吸だけはゆっくりと繰り返されていた。
「まさか、勝手に外に……??」
 里子は探し回る足をとめて、床に倒れ伏したままのまゆらを見おろした。
今まで通りまゆらから『魂』に等しい『モノ』を取り出し人形へ――『冬の娘』へと移したけれども――今にも動き出しそうなほどに生気に満ちていたとは言え、実際に動いた人形は一体もなかったのに、銀色の髪の娘はいなくなってしまった。
 もしかして、幼い子供の『モノ』ではなかったから今までと違うのだろうか。それとも、彼女の『モノ』は特別製なのだろうか――とまで考えて、里子は引きつった笑いを浮かべた。
 馬鹿らしい、いくら『魂』に似たモノを移したところで、人形は所詮人形。ここから勝手に出て行くなどあるはずがない。
 いや、わたしに作られた人形であるならば尚更に、奇跡が起きて動けるようになったとしても逃げ出したりするわけがない。造物主から創造物が逃げるなどありはしないのだから。
 里子はまゆらのカバンもなくなっているのだとは気がつかず、またしても白いドレス姿の人形を探し続けるが、どれだけ探しても人形は見つかるはずはない。
 そうこうしている間にも、冬の寒さと雨の湿気と無理な体勢がたたったのだろう、腰が痛くなってきた。痛いと感じれば、膝も手首も痛くなってくる。足の先がしびれているのを先から我慢していたが、もう限界だ。里子は作業机の椅子を引いてよろよろと座り込んだ。
 そうだ、闇雲に探すのじゃなくて、ちょっと考えましょう。もしかしたら誰かが来て持っていってしまったのかもしれないわ。表の人形館の鍵を持っているのは責任者のつぐみちゃん。それから、長く勤めてくれている田中さんも持っているけれど、このアトリエの鍵は持っていないはず……あぁそうか、つぐみちゃんが持っているアトリエの鍵は人形館にあるのだから、田中さんでもここは開けられるんだわ。でも、田中さんは珍しい休みだからって、旅行に行きますって言っていた……。
 そうよ、この調子でよぉく考えてと里子は自分を励ました。
 引退したとは言っても『前川里子』の作品はまだまだ高値で取り引きされている。いや、引退して新作が出ないからこそ収集欲と所有欲をかきたてられるとも言える。そんな中での『世に出るはずのない新作』の価値に天井はないだろう、とおのれの作品の金勘定には疎い里子にでもさすがにわかった。
 だとしたら、泥棒の仕業なのかしら。戸締りはきちんとしていたけれど、泥棒が入ってきてあの子を持って行っちゃったのかしら。
 だとしたら、床のまゆらちゃんも見られちゃったのかもしれない……。それとも、等身大の人形だと思ったのかもしれない。電気が煌々とついていなければ――目を閉じていては人形と区別がつかないような可愛い子だから、勘違いしても不思議ではない……
 里子は冷静に冷静にと唱えながら考え続けているが、『おばぁさまが香姫ちゃんのクリスマス・プレゼントをアトリエにこもって作っている』とつぐみから連絡を受けた香姫が、つぐみから鍵を借りて里子に会いに来たのだとまでは考えが及ばなかった。
 里子は椅子に腰掛けたまま、イライラと考え続け。
 その足元では、まゆらが深い眠りにでもついているかのようにゆっくりと呼吸を繰り返す――……
 その時、ガタンッ! と一際大きな音がして、荒れた風で窓が軋んだ。
 里子ははっと窓へと視線をやって、その下にいるはずのない存在があるのに気がついて息を飲んだ。
「……探偵さん」
 オレンジ色の光の輪から外れた薄い闇に、黒衣の子供が立っていた。
 窓も扉も開いた気配はしなかったのに……
 黒衣姿の子供――ロキは、無表情に近い、不機嫌そうな顔だった。
「あなただったんだ」
 ぽつんと呟いて、どこかしら拗ねた顔で里子を見つめてくる。見た目の年齢に相応しい表情だった。
「公園でまゆらと並んでるのを見た時、祖母と孫で日向ぼっこしてるみたいでいい光景だなって思ったのに」
 ちょっと残念。
 ロキはまだむすりとしている。
「探偵さん……」
 里子はなんと反応すればいいのかわからなくて、椅子から立ち上がるでも、倒れ伏したまゆらを隠すでもなく、じっとロキを見つめ返していた。
 この子は知っているのだろうか。この子が思っていることを逆手にとって、今までしていたいくつものことを。罪深いことを。
 いいや、知っているのだろう。闇に溶ける黒衣姿に、赤くも見える両目。開かないはずの扉と窓。まるで死神みたいなこの子供は、知っているのだろう。全部ではなくても、結果だけでも。
「知っている? この街では最近、不自然な少女失踪事件が頻発しているんだ。海外ならともかく、日本の、ひとつの街に集中するには不自然なくらいね。しかも、年齢は小学校一年生と二年生。幼稚園児よりも行動範囲が広くて、大人の目も届きにくくなって、それでいてまだ警戒心が未発達な子供をターゲットにするのはある意味安易な流れだからかとも思っていたけれど……単なる偶然だったんだね」
 ロキが把握しているだけでも、二人の少女が梅沢波音と同じく数日間だけ行方不明になり自宅近くで無事に発見されるが、彼女たちは魂を抜かれたかのように無気力になっていた。波音を含めた三人とも、小さな頃から明るく『夢』を語り、習い事に熱心で、『才能がある。将来が楽しみだ』と言われた子供だった。
 真に隠されていたのは、特別金持ちの家の子供でも、特別見た目の良い子供でも、特別素直な子供でもなく、大きな夢を持った子供たちだったのだ。キラキラとした目で夢を語るのを恐れない少女たちが里子の目に付いたのは本当に偶然。ヘイムダルが蒔いた種を植え付けられた人間たちが、里子の行為を隠す作為を持ってそれにあわせさせられていたに過ぎない。
 里子はうっとりと微笑んだ。老婆にしては、いやに少女めいた笑みだった。けれどもロキは、その中に潜む不安定さを見抜いていた。
「だって、綺麗だったんだもの。あの年頃の子供の『夢』は本当に綺麗なのよ。キラキラして伸びやかで、挫折を知らず、自分の可能性を無邪気に信じているの。魂はね、簡単に薄汚れたり磨耗したり欠けたりするけれど、夢は穢れないの、残酷なほどに。きっと、夢とは誰かを蹴落とすものだからでしょうね。皆一緒に手を繋いでゴールするなんてできないものだからでしょうね」
 だったら、何故まゆらを……。ロキはその言葉を口に出せず、視線を落とす。オレンジの光が届かない反対側に倒れ伏したまゆらの頬は不気味なほどに白い。
「まゆらちゃんがあんまりにも無邪気だったんだもの。綺麗ねぇ、探偵さんの宝物は。こんなに綺麗なままで大きくなった子、はじめて見たわ。公園でね、あなたたちを見た時、探偵さんはひとめで『人間とは違うイキモノ』だってわかったわ。だって何の色も見えなかったんだもの。それでね、まゆらちゃんは真っ白なの。光と影、白と黒、天使と悪魔みたいで綺麗だった。でも、たったひとりの探偵さんは『死神』みたいに見えるわ。きっと、わたしの首を刈り落とすのね」
 里子はほろほろと笑った。
「わたしね、探偵さんと同じくらいに不思議な男の子に不思議な目をもらったの。魂が見える目なんだって。それから、魂を抜き出して人形にいれる不思議な手も。でもね、魂より夢の方が綺麗だった。だから女の子たちの夢を抜いて人形にいれたの。魂を入れたら人形は本当に動き出すらしいんだけど、夢ではダメみたい。でも、夢をいれた子供たちはこんなにも綺麗になったのよ、見て」
 里子が指差したのは、アトリエに設えられた棚の一角。三体寄り添った少女人形は、ぼんやりした灯りの輪の中で不気味に息をこらえていた。
「あなたはその不思議な目と手を手に入れて、かわりになにを差し出したの?」
 里子はヘイムダルとどんな交換条件を交わしたのだろう??
「それは、これを作る『約定』だ」
 この場にはいないはずの第三者の声にはっとロキが振り向くと、そこには黒髪の人形を手にしたヘイムダルが立っており、ヘイムダルはロキにめがけて人形を投げつけた。
「う、わ……ッ!」
 人形を投げられた、それだけではない衝撃が走った。
 いや、一瞬閉じてしまった視界を開ければ、人形は実際にはロキにぶつかってはいなかった。
 それどころか、空中に浮いて、服を着ていない裸の腕を大きく開き、ロキに抱きつこうとでもしているかのような格好をとっていた。それとも、ロキの存在を取り込もうとしているのだろうか。実際、空中に浮いた人形に影を踏み抜かれでもしているようにロキは動けず、力を削られでもしているのか、じりじりとした痛みが全身を襲っていた。
「く……ッ」
 たまらずついた片膝。
 両肩にのしかかる奇妙な重圧。
 血液を抜かれるのに似た虚脱感と不愉快な浮遊感。
「これ、は……っ」
『巧みな作り手だけが作り出せる、おのが意思で相手の魂を引きずり出す『呪い人形』さ』
 嘲笑を含んだヘイムダルの声が――遠い。

   【 十一 】



 耳の傍でざわざわと聞こえる。
 海の音? ざわざわ ざわざわって、砂の上を撫でて行く波の音?
 それとも、これは雨の音? ざわざわ ざわざわって、ガラスを撫でて行く雨粒の音?
 どれもこれも違う気がするのはどうしてかな……。
 あぁそうだ、これはお庭の木の葉っぱが風に揺れる音。
 だってまゆら、おばぁちゃんにお話を聞かせてもらって、それからお膝でお昼寝したんだもん。
 海には行ってないし、今日はいいお天気だから、やっぱりこれは葉っぱが揺れる音。
 ざわざわ ざわざわ…… 
 けど、まゆらのおばぁちゃんは里子おばぁちゃんだったかなぁ? 違う気がするんだけどなぁ……
 でも、懐かしい感じがするから、まゆらのおばぁちゃんは里子おばぁちゃんだよね。
 
 どこか遠くで、誰かが『違う』って言ってるけど……それも気のせい、だよね――?
 でも、この声――どこかで聞いたこと、ある……

 わたしは興味を惹かれて、ゆっくりと目を開けてみた。
 そしたらそこは家の庭ではなくて、それどころかお昼でもなくて、どこかの薄暗い部屋で、人がいっぱい見えた。
 里子おばぁちゃんと……ロキ君の友達の、和実君?
 それから……なぜかロキ君が床に膝をついているのが見えた。
 どうしてかわからないけど、すごく苦しそう。
 変な夢。
 でも、ロキ君が苦しそうなのは気になるし――やだな。

   ***

「探偵さんの魂を取り込んだこの子は本当の意味で動き出すのよね。ね、和実ちゃん?」
 里子はうっとりと人形を見上げて微笑んだ。
 今までは少女たちの『魂』ではなく『夢』を人形に移したので、人形師の夢である『生きた人形』はまだ作り出せていない。ロキの『魂』を取り込んだ人形がどうなるのか、『魂』を抜かれたロキがどうなるのか里子にはわからなかったが、里子はただワクワクとその瞬間を待ちわびた。
 大急ぎでしつらえた人形ではあったが、『冬の娘』と同じくおのれの最高傑作だと自負している少年人形が動くところを考えるだけでも胸が熱くなる。とうとう自分は『人形師』の夢を叶え、『人形師』を超えるのだ。『命あるモノ』の造物主となるのだ。
「そうだ、ロキは人形の中で永遠に生き続けるんだ」
 本来の肉とは違う人形の器に閉じ込められるなどロキにとっては屈辱以外のなにものでもないだろう、と考えるヘイムダルの視線はどこか冷めていたが、里子は気がつくはずがない。
「永遠に生きるんだって、素敵ね。わたしがこの世に生み出した人形が永遠に生きるんだって。とっても素敵」
 もうすぐ死んでしまうであろうわたしの子供が永遠に生きるのだと考えるだけで、とても嬉しい。
 里子は少女めいた笑みで人形を見つめるが……
「違う……人形は所詮……人形だ。生きるなんて、ない!」
 両の膝をつき、そのまま崩れ落ちそうになるのを必死にこらえながら、ロキは切れ切れに言い放つ。ぐっと握りしめたはずのこぶしの感覚はもう虚脱感に飲まれて微塵も認識できなかった。
 気管支と肺をぎゅうぎゅうと圧迫する痛みとそれによる酸欠に、思考がふわりと遠のきかける。
 冬の寒さよりも強い寒気が全身を包み込む。それはもう内にあるのか外にあるのかわからなかった。
 反して、空中に浮いたままの裸の人形は、生き生きとしていた。白い肌は生きている人間めいた生々しさを帯び、薄い胸は擬似呼吸運動にゆるく上下する。眼に宿ったのは意思の光だが、それは歪んだ色だった。
 ロキがとうとう手をつき、床に崩れて意識を手放しそうになった時――

「いやぁぁぁぁッ!」
 まゆらが。
 人形の前に立ちふさがっていた。

   
























 なんだかふわふわするよ。
 ふわふわ ゆらゆらするの。
 やっぱり海にいるのかな。
 浮き輪を浮かべて波にゆらゆらしてるの、大好き。
 そう思ってたら、ぽつんと頬にしずくが落ちてきた。
 ちがうのかな、やっぱり雨が降ってるのかな。
 じゃぁ、これは雨漏り?
 パパに雨漏りしてるよって言わなきゃ。パパが屋根にのぼって落っこちたのっていつだっけ。あれからパパってば、屋根にのぼるのしぶるのよねぇ……
 それにしても、やけに冷えるなぁ……
 年が明けるまで雪は降りそうにありませんって天気予報で言ってたくらいの暖冬なのに、すごく寒い。雨が雪に変わりそうなほどの底冷え。
 あれ? 海に行くなら夏だよね? 雪って考えるなら冬だよね?
 じゃぁ、ここはどこなんだろう……
 

「……ぁ」
 ゆっくりと目を開けてみれば、黒の背景に白くてふわふわしたものが見えた。
 ふわふわ……とよろめいたかと思うとゆらゆら落ちてきて、頬に触れた。じわ、と体温で溶けて水滴になる。
「ゆき……?」
 次から次へと落ちてくる白いものを視線でゆっくりと追う。そうしている間にも、指の先に、手の甲にと白いものは落ちて、じんわりととどまるのがわかった。
 雪だ。雪と冬の匂いだ。
『それから――ロキ君の匂いだ』
 体にかけられているのはコートだろうか。もぞりと体を動かせば、手触りの良い生地の感触とあたたかさとロキの匂いがする。
 まゆらはゆっくりと目を閉じた。ふわふわしていい気持ち。このまま眠ってしまえたらとても幸せ。
 なのに、なにやらあせった声が意識を引きとめた。
「あ、寝るな、まゆら」
 ふぇ? と目を開けなおすと、黒い背景だと思っていたのは、ロキだった。よくよく目を凝らしてみれば、頭上から鈍い光が落ちていて、まゆらを抱きかかえているらしいロキの顔を影に落としていたのだ。
「ここ……どこ?」
「近くの公園のベンチ」
 あせったかと思うと、今度は声だけで『むすりとしてるんだ』とまゆらにもわかるほどに不機嫌な声で端的に答える。
 ロキの顔は影に隠れているけれども、影を縁取るように、公園にしつらえられた街灯が落とす光に照らされた淡い色の髪がキラキラしていた。大人の姿なのだ。
 まゆらはふと、ここがなにもない公園なのが残念になった。
 本当は大人姿のロキと、綺麗に着飾ったクリスマスの街を歩きたかったのに。
 手を繋いで欲しいとまでは言わないけれど、恋人に見えるような姿で歩けたらいいなとほんの少しだけ考えていたことを思い出した。
 でも、ここで良かったのかも知れない。華やかな電飾もにぎやかなクリスマス・ソングもないけれど、白い雪と綺麗な空気とロキがいるならどこでもいいのだ。
「なんで、おっきいの?」
「……まゆらを運ぶには子供の姿じゃ無理だから」
 やはりむすりと答えられる。
「さとこさん……どーなったのかなぁ」
 なんの気もなくふと気になったことを口にすれば、ロキの不機嫌がさらに増したのがわかった。
「まゆらは無用心だ。あんな時にばっかり気がつくなんて、もうちょっとタイミングってものを考えたらどう? ボクは普通の人間じゃないんだから、あれくらいなんとでもなったのに」
 うーん、それには反論できない。だって、体がしびれて動かないもん。
 それだけの長い言葉を喋るのも実は億劫で、まゆらは誤魔化す為に小さく笑った。
「でも、後悔はしてないんだよ……?」
 体がしびれているのはあの時に人形の前に飛び出したからなのか、それとも雨が雪にかわるほどの寒さのせいなのか、まゆらにはよくわからなかった。それでも徐々にしびれや痛みはやわらいできていて、呼吸も楽にできるようになってきた。ロキの体温が身体をあたためてくれているのだから。
「それから……ね。こんな時ばっかり『普通の人間じゃない』って、言葉で線をひくの、ロキ君卑怯だよ」
 普通の人間だろうがなかろうが、大人だろうが子供だろうが、大丈夫だろうがなかろうが、苦しんでいたり痛がっていたり……悲しんでいたりするのを見たくない気持ちに差などあるはずがなくて。
「ロキ君が『普通の人間じゃない』のなら……ロキ君がわたしのこと、好きとか言ってくれる言葉も、わたしが思っている意味と違うんだろうね」
 それはちょっと……残念だなぁ。
 まゆらはそれだけを吐息にふわりと乗せて、目を閉じた。
 いつも周囲に『天然』やら『鈍感』だと言われていても、今自分が口にした言葉の意味くらいわかっているつもりだ。
 それよりも、頬にかかる寒さや疲労感で眠いし、抱きしめてくれているロキの体温がなにより気持ちが良くて、ふわふわしている。
 ロキが小さく息を飲むのが感じられた。

 そんなわけないじゃない、とやっぱりまだ怒っている声がして、
「クリスマスには奇跡が起きるって言うけど……」
 ――これもタイミング外してるんじゃない?

 ロキのあきれた声が聞こえた気がしたが、まゆらはふわふわした睡眠の海へと潜り込んでしまったので――水圧にくぐもった耳にはロキの言葉は届かない。

   ***

 材料や道具、人形が整然と並べられた薄暗い部屋は、先ほどまで強く雨に打たれ、そして急激に襲ってきた冬の寒さによって底冷えしていた。
 床に座り込み呆然としている里子の体から、冷え切った空気は容赦なく体温を奪っていく。
 ……まるで、あの子が怒っているみたい。静かに、静かに怒っているみたい。
 里子はぼんやりと考える。
 里子の目の前に転がっていたのは『あの子』を模した黒髪の人形の残骸。
 人の身では、あの時になにが起きたのかはよくわからなかった。気がつけば、不思議な片目の少年も、倒れていたはずの女子高生も、死神もいなかった。
 棚に飾られた三体の少女人形はただの人形に戻っており、まるで、アトリエでうたたねして悪い夢から覚めた気分だった。ただひとつ、破壊された黒髪の人形と、ぐっしょりと濡れた白いドレスの人形だけが、あれは夢ではなかったのだと知らしめる。
「おばぁちゃん……」
 いつからここにいたのだろう、ひ孫の香姫がそこに立っていた。香姫の手には薄い毛布があり、里子の冷えた肩に着せ掛けてくれ、そのまま抱きしめてくれた。まるで母親みたいに。
 里子は美しい自慢のひ孫を、はじめて見る心地で見つめていた。
 この子は綺麗だ。大きな黒目がちの瞳や、長い睫や、白い頬や、艶やかな黒髪や、伸びやかな肢体があるからではない。
 ただ真っ直ぐに生きている。なにも特別などなく、ただ普通に。それだけでもこんなにも美しく見える。
 悪いことを悪いと考えられる。強い意思でもって『悪』を拒絶する。その真っ直ぐさが美しい。誰かに誇示する為ではない『夢』を持っていることが美しい。
 和実が去ったからだろうか、不思議なものを見る目はなくなっていたが、それだからこそ余計に今の感情は本心なのだろうと里子は考える。
 普通であること、特別ではないこと。それはまゆらにも当てはまるのに、どうしてあの子だけ動けたのだろう、と里子はぼんやりとした思考のままで考える。小さな子供たちと同じように『夢』を取り出したのに、どうしてあの子は動けたのだろう。
 あの死神がまゆらを『特別』にしたのだろうか、とそこまで考えて……
「あぁ、『夢』ではないからね」
『夢』は不思議な言葉。
 それは、不確定な未来に描く未来図。
 それは、不確定な未来に抱く希望。
 それは、不確定な未来に探す可能性。
 けれども、『不確定』な要素が少しでも『確定』に近づいたのなら。
 まったくの『絵空事』ではなくなりそうだったら。
 自分の努力や勇気や世界の奇跡ひとつで『実現』しそうだったら。
 それは『夢』の冠を外される。
「まゆらちゃんにとって……『夢』は『夢』でなくなりかけていたから」
 限りなく現実に近いモノだったからなのだと、里子にもわかった。

おわり


『加糖』+『移調』=ワケわかめ意味とろろ昆布なお話でした(笑)。
お付き合い下さいましてありがとうございました。
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