扉がよっつ並んだ長い廊下の突き当たり、そこがまゆらのいた部屋。
まっすぐに伸びたもう一方の扉を開ければ、玄関ホールであったはず。
そう記憶していた闇野であったのに、彼は今心底困惑していた。
廊下にまでご丁寧に、真っ赤な絨毯が敷いてある。闇野の目には、上品を通り過ぎて嫌味にしか感じられなかった。
廊下の先に対のようにして立ちはだかる扉までえらく長く感じ、ようやく辿り着いたかと思えば、扉の先にあるのは別の部屋。
ならばと引き戻って他の扉を開けるがどの部屋も窓が厚く塗り込められ、外の世界を覗くことすらできなかった。
「闇野さん……出られないよっ」
この空間が奇妙に閉じられた場所なのだと、嫌でも認識しないわけにはいかない。
まゆらが心底怯えた声で、闇野の腕にしがみつく。いくらミステリーやオカルトが好きでも、怪異の真っ只中で恐怖を抱かないほどにはまゆらは鈍感ではなかった。
部屋の窓が無理ならと廊下に設えられた窓からの脱出をはかろうとして、それもびくともしないのだと、彼女は先ほど確認したばかり。その窓の感触が現実的であればあるほど、この狭い閉鎖空間の異常性が浮かび上がって、恐ろしい。
「まゆらさん、さっきの部屋に戻りましょう。窓なら、あの部屋にもあります」
『最悪あの窓を破りましょう』との闇野の言葉にも、まゆらはイヤイヤと頭を激しく振るばかりであった。廊下の最奥の部屋から脱出した今なら、どうしてあんなところで無防備に眠れたのかと心底不思議に思えるほどに、あの部屋もまた微妙に異常を含んだ部屋に感じられてならないのだ。
「あの部屋には、少なくとも時の流れがあるようでした。この廊下のように、ではなく」
闇野は、廊下の片面に並ぶ窓を見上げる。混乱するまゆらとは対照的に、うららかな庭がそこにはあった。
まゆらがこの屋敷を異常だと強く感じたのは、どの部屋からも外に出られないことよりも、窓の外の景色だった。
あの部屋には夕暮れが訪れていたはずなのに、廊下の窓の外に広がる世界は、柔らかな午後の光の中で紅梅が風に花びらを震わせていたのだ。もう、どちらの時間を信じればいいのか、まゆらにはわからなかった。
とうとうまゆらは両手で耳をふさぎ、ぎゅっと目をつぶって、廊下の真ん中にぺたりと蹲ってしまった。
「まゆらさん……」
ヒトは、強すぎる非現実のできごとに晒され続ければ壊れてしまう。行方不明になる前日から様子がおかしかった彼女であればなおさらに。
まゆらが心底参っているのだと闇野は悟って、無理矢理にでもあの部屋へと戻ってみようとは言えなくなってしまった。
焦りが判断を間違わせたのだろうか。意識の自由を奪うことが可能な相手から逃れる為の好機と、あの一瞬に飛びつくのではなかったかもしれない。ヒトの子であるまゆらを連れての脱出なら、もっと慎重に、相手の出方を見るべきだったか。
いや、それとも――まゆらを連れて行く、その選択自体が間違っていたのだろうか。
そこまで考えて。
闇野はふいに笑った。なんて『非人間的』な考え方だろう。いや、これこそが『人間的』なのかもしれない。
どちらにしても、これは自分らしくない考えだ、と振り払い。
「まゆらさん、絶対にここから出ますよ!」
目標を、ここからの脱出へと再び定める。そこには、言葉にもならない『ふたりで』との意思が込められていた。
そんなふたりの前で。
庭を透かして見せていた窓や、その壁がぐにゃりと歪み、ゆっくりとかき回したコーヒーを上から覗いているかのようにぐるりと混ざりあったかと思うと、そこに夜の色を落とし込んだ。
「……ヴィ君」
黒衣に赤い髪はよく映える。
その赤い髪よりもなお赤い目がふたりをみつめている。どこか、静謐とした視線だった。
「まゆらもヤミノ君も、悪い子だね。この屋敷から出ようとは」
どこか『誰か』を髣髴とさせる物言いや姿は、闇野にとっては耐え難いもの。
「私たちに暗示をかけたばかりか、ロキ様を真似るなど不遜極まりないです! いい加減本性をあらわしたらどうです?!」
声をあらげた闇野を、まゆらは目を真ん丸にして見上げた。彼がこんなにも大きな声を出すなどはじめてだったからだ。闇野は本気で怒っているのだ。思わず、ヴィの尋常ならざる登場よりもそちらの方に気を持っていかれてしまう。
闇野は、座り込んでしまって動けないまゆらをかばうようにヴィの前へと立ちはだかるが、ヴィはこくりと首をかしげるだけだ。
「ロキを真似る? そうかもしれないね。なにせ、ぼくは……。でもね、ヤミノ君」
言葉の間の、奇妙な空白はなにだったのだろう?
言葉の外で言いたかったのはなになのだろう??
まゆらは、そんな時ではないのに、そんなことが気になって仕方がなく、視線をヴィへと転じるしかなかった。
「本物がいなくなれば、ぼくこそが本物ではないかな」
ただ、彼の言葉は――やはり、どこまでも理解不能で。
「そもそも、そこに『本物』とか『偽者』とかあるのだろうか。ぼくにはよくわからないよ、ヤミノ君」
「私にとって、あなたが本物だろうが偽者だろうがそれこそ関係ありません。ロキ様が偽者だったとしても、私にとって大切なのはロキ様であって、本物だからって言葉ひとつであなたごときが私にとってのロキ様に成り代われるものではありません。だからこそ、ロキ様に似た存在が目の前をうろちょろするばかりか生活をひっかきまわすその所業に腹が立つのであって、それが故意だから尚更ムカムカしてるんですっ!」
闇野の立て板に水状態の言葉の羅列を受けて、ヴィは珍しく目を真ん丸にした。ついで、その目を笑みの形に細める。純粋な笑みではなく、どこか人をくった笑みだ。
「やっぱり、こっちの方が面白いな」
だからその表情はやめろって言うんです!
闇野が子供のケンカレベルの反抗を試みるが、ヴィにとってはそんなものは予想内のひとつであったのか、余裕の態度で腕を組んで闇野と対峙するだけだ。
「うん、結局はどっちでもいいんだけど」
キミにならこの言葉の意味がわかるよね、ヤミノ君?
あくまで余裕の態度を崩さないヴィの言葉に、闇野は歯噛みするしかなかった。なぜなら、彼にはわかっているからだ。ここにヴィがいる、その時点ですでに勝敗は決まっているからだ。散々の反抗も、ヴィにとってはただのお遊びにしか過ぎないのだろう。
「でも、そうだな。さっきみたいに意識を封じ込めてしまうより、そうやって喋ったり笑ったり……怒ったりする方が楽しい。紅茶一杯素直にいれてくれなさそうなのが残念だけど」
あの人形がいれるより何倍も美味しい紅茶だったのになぁ。
ヴィは、心底残念そうであった。
「あったりまえです! たかが人形がいれた紅茶なんぞに私が負けるはずがありませんッ!」
「うん、ホントに残念。考え直してくれると嬉しいな」
だから、少し頭を冷やしておいで。
ヴィがすいっと指先を閃かせると闇野とまゆらの周囲の空間がぐにゃりと歪み――ふたりは、もといたあの部屋の中央へと戻ってしまっていたのであった。
* * *
月はとうに十五から細り、満月ではないはずなのに、コンパスで描いたかのような真ん丸の穴が空にあいていた。
明るい光源であるにも関わらず、円の周囲は微妙なグラデーションにもならず、異様さをいや増していた。
頭上に広がるのっぺりとした紺碧の海の向こうには赤い紙が敷かれていて、穴からちらりと顔を覗かせている――そんな馬鹿な考えに陥ってしまいそうだ。
けして美しい光景ではない。けして自然な色合いではない。
その名の通り、滴り落ちる石榴に似た鈍い赤の色は、美しく自然な色合いではなく、滑稽この上なく。
その滑稽さは、おのが内にひそめた狂気をも呼び起こしそうで、恐ろしくもあり。
直視すればなにが起きるかわからない不安定さが悲しくもあり。
ガーネット色した月が照らす夜道を、長い髪の少女と、黒衣の少年と黒い犬、そして隻眼の少年が辿る。
彼らの姿を、雲ひとつない世界のどこから湧いてきたのか、乳白色の霧が覆い隠していく。
道だけはまっすぐに伸び、空だけはどこまでも晴れ渡っていた。
その、非現実的な道を幾分か進んだ時、ロキは鼻先にふぃと掠めた香りに気づく。
梅の香だ。
「もうすぐなのかい?」
導くともなく導く人形に、尋ねるともなく尋ねてみれば。
「主様の屋敷は赤い屋敷。庭の梅さえ見事な赤です」
人形は歌う。
「それを見事だと思う気持ちはキミの中にあるのだろうか」
「あるとお思いなのですか」
「キミの中には『まゆらのかけら』があるらしいけど、一体それがなにを意味するのだろうと思っただけだ」
少なくとも、彼女なら――この空を恐ろしく感じるであろうし、この霧に怯えるであろうし、正常な梅であれば愛でるだろう。
目の前の彼女は、まゆらの一部分ですらない。ただの、似せて作られた人形なのだと思わずにはいられない。
どれだけ似ていようが『本物のまゆら』でなければ意味がない。
「無駄話はそこらへんでやめろ、ロキ」
ヘイムダルの言葉がなくとも、ロキにもわかっていた。
乳白色の霧をわけるようにしてあらわれたのは、ぐるりを繊細な鉄格子で囲まれた、赤い屋根の屋敷。
庭に咲く梅が作り出す赤い霞とその匂いは、自然界には有り得ないほど濃く。
高くそびえる鉄門と、彼らを見下ろすようにして両脇に設置されたブロンズ色をした醜い造作のガーゴイル。
ロキは無言でその手に月色の光を宿したレイヴァテインを呼び出し、ヘイムダルも手にした鞭の柄を軽く構えなおす。
彼らの目の前で、無機物の彫像がぴくりと身動きしたかと思うと大きく伸び上がり、穴だらけの翼を広げ、甲高い威嚇の声をあげるのであった。
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