赤い月は泣いている 

【 8 】






「ヤミノ君?!」
 ガーゴイルの一頭との間に突如あらわれた闇野の姿にロキはさすがにうろたえた声をあげるが、そんな場合ではない。考えるよりも先に地面を蹴り、彼のそばへと跳躍する。
 バチッ!
 間一髪、ガーゴイルがその顎から放った炎の玉を、ロキが作り出した防御壁が弾き返した。
 ロキは続けさまにレイヴァテインから力を解放し、白い光となった力はガーゴイルの右目を鋭く射抜いた。
 ぎぁぁぁぁッ!
 尖った爪がついた骨ばかりの手で顔をおさえ叫び声をあげるガーゴイルはじりじりと後ずさりするが、鉄門へと背を押し付けながらも護りを解こうとはしない。見た目と違って、なかなか命令に忠実な怪物であるらしい。
 アスファルトもおぼろな乳白色の霧の中、視線をちらと周囲にやれば、地面には無造作に穴が幾つもあり、亀裂が幾本も走り、爪や炎でえぐられた後もあるのに、鉄門や鉄格子はまったくの無傷であった。
 ロキは、防御壁の中で醜い怪物をみあげながら、憎々しげに舌打ちをする。
「ヤミノ君、怪我はない?」
「ロキ様、まゆらさんがあの中に……」
「わかってる」
 ロキはもう一閃とばかりに力を解放するが、醜い図体に似合わず俊敏なガーゴイルがひらりと避ける。
 目標物を失った魔力は鉄門を破るかと思われたが、寸前で不自然に軌道をかえられ、力はてんで無差別な方向へと流されていった。だがそれは、ヘイムダルが相対峙していたもう一頭のガーゴイルの背中へと突き刺さった。
 絶叫をあげたガーゴイルは、地響きを立てて倒れ、乳白色の霧に溶けるようにして跡形もなく消え去った。
「ロキッ! 危ないな!」
 倒れ込んだガーゴイルに巻き込まれそうになり、寸前で大きく飛びのき距離をとったヘイムダルがロキに向かって怒鳴るが
「感謝の言葉はないのかな、ヘイムダル?」
「色々な意味でわざとだろ、さっきの?!」
 なかなか本調子のようであった。
「どうしてヘイムダルさんが?!」
 思いもよらなかったヘイムダルの存在に闇野が素っ頓狂な声をあげるが、今はそんな場合ではないと思い直す。
「ロキ様、あの屋敷は変です。どうやら見た目通りの屋敷ではなくて、空間が捻じ曲げられているようです」
 ロキは頷きひとつ置いて防御壁を解き、いったん空に舞い上がり難を逃れた残りのガーゴイルと真向かう。
 がぁぁぁっ!
 ガーゴイルが甲高い声をあげ威嚇し、潰れた右目からダラダラと青い体液を振り撒きながら襲い掛かってくるが――
 第一陣は凍結の力を込めた魔力をガーゴイルが背にした鉄門に向け、時間をずらした 第二陣には真正面から低重音の力を込めた魔力をロキは放つ。
 ガーゴイルは、鉄門から反射した凍結の魔法に覆われて上半身が一瞬にして凍りつき、低重音の一撃を受けてジリリと振動したかと思うと、粉々に砕け散った。瞬間凍結したものは衝撃に弱いのだ。残った下半身がゆっくりと倒れ、地響きをあげながら乳白色の霧に沈む。
 ロキ様、やりましたね! と闇野が声をあげるが、霧が重く垂れ込めて奥行きさえもわからない背後にじりりとにじり寄る新手の気配に気付き、悠長に喜んでいる場合でもないとその場にいる者たちは悟った。
 ロキは鉄門前へと立ち、目を閉じる。レイヴァテインを目の高さに水平に構え、ついでザッと乳白色の霧を切り裂いて、門へと杖を向けた。
 シャリリィィィィン……と金色の輪が高く鳴り響き、レイヴァテインがまばゆく輝きだし。
 その光は、門を護る空間を浸食し。
 徐々に護る空間に綻びが生じ。
 水の膜が晴れたかのように、鉄門がどこか鮮明になる。
 そして、ついにロキの力に、門の護りが完全に屈服した。
 さらに強く香るのは梅のもの。花のかすみにめまいまでしそうであった。
 まったき姿を取り戻した門をロキがくぐり、無言のままヘイムダルが続いた。彼の足元を追い抜くようにしてフェンリルが走り抜ける。
 彼らに続こうとした闇野は、無造作に破壊された激戦区跡の傍らにぼんやりと佇む少女の姿に気がついた。どこからどうみてもまゆらにしか見えない造作でありながら、やはり生気に乏しい、生きている人形――闇野がこの不可思議の館へ誘い込まれることになった元凶の少女人形。
 視線をめぐらせれば、ロキが作り出した空間の綻びは、自己修復してみるみる閉じていこうとしていた。
「……!」
 闇野は逡巡しながらもきびすを返し人形の手を引っつかむと、今まさに閉じようとしていた穴の隙間に身を滑り込ませるのであった。

   * * *

 外観以上に広い印象を与える玄関ホールは、ちょっとしたパーティがひらけるほどの広さだ。
 左右対称に展開した造りに両側から伸びた階段など、ヨーロッパかどこかの貴族の屋敷に居る錯覚に陥りそうだ。赤色ばかりがやけに目に付く内装に、くらりと目がまわりそうになる。
 どこかで見覚えがある、と思い出せば、ロキにはその屋敷がなにを模しているのかすぐに見当がついた。
 暇潰しにページをめくった、ヨーロッパ建築本。それらを赤く塗り潰せば目の前の光景になるだろう。
 ――記憶の断片の寄せ集めか。
 自己発想力ってものはないのか、とロキは胸中で吐き捨てた。
 そんな彼らの目の前で、階段下に隠れるようにしてあった一枚の赤い扉がゆっくりと音もなく開いた。そこから歩み出てきた人物が誰を模写したのかありありと検討がつき過ぎて、ロキは一気に不機嫌の底辺を掘り下げる。
 彼らの前へと姿をあらわしたのは、闇野を模写した、あの執事人形。細身の体にしっくりとあわせた隙のないスーツも磨き上げた革の靴も丁寧に撫で付けた黒髪も、細いフレームの眼鏡さえも、闇野を意識した取り合わせだ。
 ただひとつまねできないのは表情だ。微動だにしない筋肉が貼りつけられただけの能面めいた顔は、見ているだけで吐き気がこみ上げてきそうなものであった。その場に生きている本物がいるだけ、なおさら違和感が強くなる。
「悪趣味も極まれり、だな」
 ロキの心中を代弁するかのような、ヘイムダルの言葉であった。
「ホントに、やること成すこと胸くそ悪い」
 チャキリ、とレイヴァテインを構えたロキが同意したのだが。
 ゆっくりとロキたちの前まで歩いてきたその人形が、突然がくりと音をたてて膝をついたかと思うと、頭部がもげ、腕が外れて腰が折れ、床へと不自然に倒れこんだので、一同はあっけにとられるしかなかった。
 ごろりごろりと鈍い音をその場に響かせて転がった頭部から、目玉がふたつころころと転がり出てロキの靴に当たって止まった。その動きはどこかしら滑稽であったが、誰もくすりとも笑おうとはしなかった。
 倒れ伏した人形はじゅうじゅうと音をたて醜悪な匂いを撒き散らしながら、先端からぐずぐずと崩れ、赤い絨毯に汚物となって溶け残った。吐瀉物のように絨毯に広がった茶色い粘着質の物体は、直視していて気持ちの良いものではない。
「ヤミノ君、受難続きだね……」
「ロキ様、私じゃぁないですぅぅぅぅっ!」
 一行の後方で闇野が滂沱と涙を流して訴える。
「うん、笑えない冗談だ」
 ロキは、半分崩れ残った目玉をぐしゃりと踏み潰した。
 人形であったものの横を通り過ぎ、闇野が指し示した例の廊下へと続くであろう扉へと向かいかけた一行は、だが、次の瞬間に振り向かざるを得なかった。
 ただの汚物と成り果てたはずの人形の残骸が、ぶくぶくと臭気をあげてあわ立ち、そこから醜い羽を広げた鳥に似た物体が、一羽、二羽、三羽……と生まれ出で、ホールいっぱいを飛び回りはじめたのだ。
 目玉からは白く細い蔦がにじり出て、部屋中に触手を伸ばし始めている。うぞうぞとうごめくその動きは、妙に軟体動物めいていた。
「うわぁ、えげつない!」
 フェンリルが、鳥が飛び交う毎に振り撒かれる悪臭に鋭敏な鼻をやられたのか、皺を寄せ低く唸った。
 鳥が落とした汚物の飛沫が絨毯をじゅぅっと溶かすとそこからも臭気が立ち上がり、ぼっと音を立てて燃え上がった。
 白い蔦の表面からは、じわりと得体の知れない粘液が染み出てきた。触れて害のないものだとは到底考えられなかった。
「鬱陶しいヤツだな。おい、ロキ!」
 ヘイムダルは手にした鞭を床に一閃、
「盾になんかなってやるつもりはないけど、先に行け!」
 声を張り上げた。
「ヘイムダル?!」
「僕は巻き込まれただけなんだからな! 問題は当事者が解決しろ!」
「でもっ」
 なおも言い募ろうとするロキを振り向き、根暗い隻眼でギロッとひとにらみしたヘイムダルは、
「アイツらのかわりに打たれたいのか?!」
 それはそれで良し! と言わんばかりに鞭を構えてふふふふふふと笑い出した。彼的には本当にどちらでも良いらしい。
「いえ、遠慮しときます」
 ひら、と片手を振って丁重にお断りし、ロキは例の廊下へと躊躇うことなくその足を向ける。
 後は任せた、なんて口にはしないけれど。
 ロキは安心してその場を後にするのであった。



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