夜の獣の声を聞け 

【 2 】






 二人暮らしがせいぜいの小さな造りになっているマンションのエレベーターもまた、とても小さなものだった。
 大人が三人も乗れば窮屈感でいっぱいになってしまうが、都会にほど近いその街の住人たちの生活時間はバラバラだ。めったに複数の住人が乗り合わせるなどもなく、やはり『隣はなにをする人ぞ』状態である。
 その狭いエレベーターの中で、暖心美は昨日出会った愉快な人たちを思い出していた。自分よりも小さいくせに『探偵』だと名乗った男の子と、彼の助手で鳴神の同級生の女子高生。
 男の子は難しい言葉をたくさん使うし、女子高生は年のわりにどこかしら幼い口調で、ふたりのやり取りは夫婦漫才めいていて面白かった。
 人形の髪が伸びた不思議も、彼らの前では怖い事柄から面白い人たちに出会うきっかけになった気がして感謝したいくらいだ。
 なによりも、探偵社で出されたチーズケーキの美味しかったこと! 下手なケーキ屋のケーキよりも美味しくて、でもお店で買えるものではないだけに残念だった。探偵社は子供が簡単に行けるところじゃないし……雛人形をお祓いしてから返してくれるらしいので、その時にまた食べられるといいなぁと暖心美はウキウキと考える。
 そうこうしている間にも、エレベーターは暖心美の家がある五階へと到着し、チンッと小さな音がしてとまった。
 到着の音がしてから三秒後に扉が低い音をたてて開いたのだが……
「あ……コンニチハ」
 扉が開いたすぐ前に、無表情でもなく、さりとて感情が表に出ているでもない普通の顔で立っていたのは、同じ階にひとりで暮らす大学生の男だった。名前は確か――田中だったか鈴木だったか。一軒挟んだ隣の部屋の住人だ。
 他の住人とは滅多に顔をあわさないのに、彼とはこのタイミングで良く会う……と暖心美は気がついた。
『お母さんが仕事の日曜日に、かわりに買い物に行った帰りとか。塾の帰りとか……そう、前の日曜日も、前の塾の時も……』
 背は普通で、体格も普通で、運動が得意そうでも勉強が得意そうでもない、どこにでもいる『近所のお兄ちゃん』だ。特別お洒落でもなく、特別ださくもなく、特別顔が良いわけでも特別ぶさいくでもない、本当に普通の人。シャツの上に羽織ったブルゾンと、色の抜けたジーンズと、有名ブランドのスニーカーもありふれたもの。
 彼は本日も彼女の単調な挨拶に儀礼的な会釈をひとつして、暖心美と入れ違いにエレベーターへと足を踏み入れる。
 暖心美は、右手に下げた食料品の袋と左手の傘を持ち直し、白いスニーカーのつま先を見つめながら、なぜかしらこみ上げてきた気持ち悪さを飲み下す。
 赤い傘の先からぱたり ぱたりとしずくが垂れて、足元に小さな水溜りを作る程の時間、暖心美は立ち尽くしていた。

   * * *

「ロキ君! この映画のチケット、今日までだよ!」
 学校が春休みであるので午前中に燕雀探偵社に入り浸るのが多いまゆらが朝もはやい時間にあらわれたかと思うと、じたじたとロキに訴えた。彼女の手には、二枚のチケットがしっかりと握られている。
「最終日って約束したよねっ」
「したけどねぇ……」
 まったく乗り気がしない態度が零れ落ちんばかりのロキの声色に、まゆらはじたじたを増していく。なんとも子供っぽい仕草である。
 封切前からチケットを片手に騒いでいた彼女に
『公開直前は込むからヤだ。最終日なら考えてもいい』
 と返答し、彼女が待ちきれなくなって他の人を誘う展開を期待していたのだけれど……どうやら、うまくいかなかったらしい、とロキは小さくため息をつく。
 ちらりと後ろの窓に視線をくれれば、そこには雨降りの世界が広がっている。明け方からしとしと しとしとと鬱陶しいリズムで降り続いている薄い雨は、夕方まで止まないと昨日の天気予報で告げていた。
「面倒くさい」
 なにを好き好んでじっとりした湿気の世界に出て行かねばならぬのか。家でわんころとのんびり遊んでいたい、と窓の外を半眼で眺めやる表情だけで告げるロキの膝の上には、黒い長男のかわりに白い子犬が丸まって眠っていた。
 足元では恨みがましげにフェンリルがロキを見上げている。そこはぼくの特等席だと言わんばかりのじっとり目。
「それに、ほのみちゃんの雛人形のお払い、念の為に頼んだよね。そっちはどうなったの」
 雛人形で女の子の厄払いの伝統が気の持ちようひとつで無用の長物になるのなら、髪が伸びたのが気持ち悪いと思いつめれば現実がひっぱられてくることもある。
 いや、現実になにか災難が起こった時に『雛人形の髪が伸びた』事実を後から無理矢理繋ぎつけて『あの時になにかしておけば!』となるのが普通だ。ならば、格好だけでもお払いなりなんなりをしてやり、気持ちを切り替えてやればいいだろう、それも『気の持ちよう』の使い方、とロキが提案したのは昨日の話。
「だって、今日はパパ、朝から忙しくしてて、お払いは明日の早朝になったの。だから、今日は一日フリー」
 あーでも、念の為に暖心美ちゃんの調査もしたいなぁ、でも映画は今日までだし……とまゆらはひとりで葛藤しているが、
「はいはい、人形の件は道々考えようねぇ。時間は有効活用」
 ロキが子犬を膝から下ろし椅子から腰をあげたので、満面の笑みになり彼の後を子犬のようについていくまゆら。
 後には、白と黒の犬が取り残される。
 光と闇の対にも似た白黒の犬たちは、もの言いたげな視線を扉に向けるのであった。


 まゆらが持っているチケットの映画館は、五階建て複合施設の最上階にあった。
 春休みがはじまったばかりであるので人出が多く、建物の内部は人で溢れている。ロキとまゆらが雨の中を辿り着いた一階も例外ではなかった。
「あ、ロキ君、直通エレベーターちょうど下についてるよ!」
 エスカレーター近くに新しい店舗が開いたのか、オープニングセールの垂れ幕がちらりと見えた。その垂れ幕の下には長い列が出来ているので開店記念品でも配っているのかもしれない。
 まゆらも少しは気になるが、あの人込みをわけてまで店を覗いてみる気にもエスカレーターに乗る気にも到底なれないところである。特に、人込みに埋もれやすい性質のロキと一緒ではなおさらに。ここまできて臍を曲げられて『回れ右』されてはたまらないし、ロキならしかねないところが怖かった。ロキは根本的に、重要事以外に対しては非常に気まぐれなのだ。
 まゆらは、珍しく一階に到着してぱっくりと口を開けたままになっている五階直通エレベーターに駆けて行く。
「エレベーターか……」
 テンションの高いまゆらと一緒にエレベーターに乗り込んで良い思い出はあまりない。
 まぁいつぞやのように四十数階もあるわけでなし。たった五階なら我慢しよう、とげんなり考えつつ、ロキは彼女に続いて狭い箱へと乗り込んだ。
 まゆらはどう考えているのかは知らないが、こんなところまで来て『回れ右』するくらいならはじめからでかけやしない、とすでにあきらめているロキである。
 やはり、機械制御の狭い箱の中は圧迫感をひしひしと感じて居心地が悪い。窓もない完全密室のエレベーターなので、狭苦しさが倍増だ。メタルホワイトの壁に黄色っぽい室内照明が反射して黄色味がいや増しているのも気になってしまう。ここまでくると『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』状態だ。なんとも恨みがましい男である。
「ところで、映画ってなんの映画?」
 映画行こう行こう春の話題作だよ! 観なきゃ話題に乗り遅れるよ! とまゆらにまとわりつかれたはいいが、今の今まで映画のタイトルさえも聞いていなかったと気がついたロキは、いまさらな質問をまゆらに向けていた。
 まゆらと映画なんぞはじめてであるし、彼女の趣味嗜好は掴みがたいのである意味なにがこようとも驚きはしない覚悟はある。べたべたの恋愛映画だろうが、アクションものだろうが、推理ものだろうが、アニメ映画だろうが。
 一番妥当なのは探偵映画だろうか、と考えるものの、今期に探偵映画はあっただろうか。そのあたりの情報には疎いので、答えを待つしかないだろう。
 だがまゆらは、
「超密室大量殺人鬼もの♪」
「…………」
 満面の笑顔までつけてくれるが、まさしくここは『超密室』なのだからたまらない。思わず狭いエレベーター内部をぐるりと見渡してしまったロキであった。
 どちらかと言えば本物の死体や流血は苦手ではないが、擬似死体やスプラッタ映像は脳内で余計なモノを補完してしまうのでリアル以上にリアルになってしまいそれだけで酔ってしまうので嫌いなのである。
 想像だけで吐きそうになったロキは、五階にエレベーターが到着する頃にはすでにヨレヨレ状態であった。これでは人込みをつっきってエスカレーターに乗るのとなんらかわりがないではないか。彼女と外出すると無駄に体力を消耗する気がするのは気のせいではないだろう。
「ロキ君、大丈夫? ジュースでも買ってこようか?」
 ロキのヒットポイントを大きく削った原因であるとちっともわかっていないまゆらは、純粋に心配しているだけだ。
「コーヒーのがいい。ブラックで」
 ちょっと待っててね! とまゆらがパタパタと足音をさせて、映画館の売店へと走って行くのを見送ったのだが……
「あれぇ、鳴神君?!」
 壁際の椅子に座って視線だけで追った売店先で彼女があげた声に気がつかないわけにはいかなかった。
「よぉ、大堂寺。映画鑑賞なんざ優雅だねぇ」
 人の多いホールでもいやに大きく響くのは、まさしく鳴神の声だ。
「ホントにあっちこっちでバイトしてんだ、ナルカミ君。ほのみちゃんトコのバイトはクビになったんだ?」
「ロキまでっ。おいっロキ、ちゃんと暖心美ちゃんの依頼は受けたんだろうな」
 ちなみに今日はジェラート屋が定休日なんだっと付け加えるのも忘れない鳴神少年である。どうやら、次々とアルバイトをクビになるのを気にしているみたいだ。
 まゆらから受け取ったコーヒーをまずそうにすすりながら、ロキは売店の向こう側にいる腐れ縁の売り子へと『恐ろしくまずいよコレ』とぶつくさ文句をつけてから
「なんか……気になるんだよねぇ」
 意味ありげに言葉を投げてみる。
「気になる??」
 まゆらと鳴神が揃って首を傾げるが――
「まさか……ね」
 手にした黒い液体に落とし込むように謎の言葉を続けるだけで、ふたりに教える気はさらさらないらしい。
「まぁ、解決してくれるんならなんでもいいんだがな。暖心美ちゃんちも結構大変な家庭なんだから、はやいとこ頼むぞ」
 なんか、首の後ろがもぞもぞするようないやーな予感もするし……。
 いつも竹を割ったみたいに率直で――ある意味、複雑な思考ができないとも言う――言いごもるなどしない鳴神が、珍しく語尾を濁した。
「なにかあるの、ほのみちゃんちに?」
 鳴神は『さぼってないで客さばけ!』の視線をぎんぎん送ってくるアルバイトの先輩をさえぎるように背を向けてから、ひっそりとロキに耳打ちした。と言っても元から声の大きな鳴神であるので、しっかりとまゆらの耳にも届くくらいのひっそりさ加減だ。
「んー、あんまり大きな声で言えるハナシじゃないんだけど、暖心美ちゃんの親父さん、どうやら失踪したらしくってさ」
「失踪? 行方不明?!」
 キラリンとまゆらの目が輝きだしたが、昨日ロキに指摘されたのを思い出したのか、あわてて口を噤んだ。失踪とは、暖心美家族の不幸の上に成り立っているのだと気がついたのだろう。
「雛祭りは三月三日だろ、もう過ぎてるのに今頃どうしたんだって聞いたら、五歳の時の三月三日に父親が帰ってこなくなったって暖心美ちゃんが教えてくれて……それから母子家庭で、店長も随分苦労したらしい」
「ふーん、だから旧暦で雛祭りをしてたんだ」
「女の子としてはそれってとっても悲しいね」
 厄払いだとか人形に災いを移すとかは別にして、現代の『雛祭り』の意味合いは『女の子の成長を祝う』めでたい日だ。父親が失踪した日に祝い事などしたくないのだろう。
 ロキはもう一口コーヒーをすすってから、にやりと人の悪い笑みを浮かべた。まさしく邪神らしい笑みだ。
「そんなにほのみちゃんちが気になるんなら、キミがパパになったらいいのに」
 だが鳴神はいつもの調子で『ばっか野郎ンなんじゃねーよ』と受け流すでなく『それもいいな』と軽く乗るでもなく、顔色を真っ青にして黙りこくってしまった。接客中では張り付いた仮面になっている『お客様は神様です』のスマイルのかけらも残っていない。
「……どしたの、ナルカミ君」
 あまりに予想外の反応に、さすがに心配になってしまった。
「ロキ、お前……冗談でも言っていいことと悪いことがあるっ。暖心美ちゃんのお袋さんは確かにすんごい若くてすんごい美人だけど、売り上げノルマ設定も商売根性もバイト使いもえげつなくてすんごいおっかないんだっ」
「あ、映画ってあれデショ? そろそろはじまるんじゃない?」
「ホントだ。三番スクリーンだって、行こ」
 がたがたと小刻みに震えあえぎあえぎ事情を口にした鳴神少年を、ロキとまゆらは薄情にもほっぽらかした。
 ロキの気持ちは鳴神をおちょくって平常心へと戻っていたが――これから本格的な地獄がはじまるのだと気がついていない。
 ふたりが向かう先に掲げられた看板には『インド妖怪ドドンパの呪い・パート5 〜死はテネシーワルツのリズムに乗って〜』の文字が。
 スプラッタ映画界では有名な映画の、シリーズ中もっとも『作りが陳腐』で『グロイ』と評価も高い作品なのだと、ロキは知らないのであった。



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