Sakura Crisis 

【 3 】






「ふぁぁ……なんか寝足りない」
 翌日も昨日に負けないほどさわやかに晴れた朝であったが、闇野が起こしに来た後もぐずぐずとベッドに居残り、往生際悪くのろのろと着替えを済ませて食卓へと向かったロキは、やはり今日も現実逃避したままであるようだ。
 だが、のろのろと辿り着いたそこには、食卓テーブルの上にずらりと準備された朝食と、その足元にきっちりとお座りをしたままあんぐりと口をあけてキッチン方面を見つめているフェンリルしかいなかった。
 つられてキッチンへと視線をやったロキはしみじみとフェンリルの気持ちがわかってしまい、呆然とするしかない。
 そこには、キッチンの王様である燕雀探偵社の主夫・闇野と、ピンク色のエプロンを身に着けて手伝いをしている玲也と、着物の上に割烹着姿で味噌汁の味見をしているまゆら――もといゆぅの姿があったからだ。さすがに今日は振袖ではなかったが、余計に現実に溶け込んでいるように感じられてならない和装姿である。
「おはようございますぅ」
 ほわわんとした笑顔で朝の挨拶をされれば気も抜けようものだ。味見用の小皿とお玉を両の手に持つ彼女は、まるで味噌のテレビコマーシャル女優の女王。または、古き良き時代の『新妻』のモデルか。
 玲也と闇野が仲良く飯茶碗につやつやした白米を盛り付けているところなども大家族の光景にも似ていて、ほのぼのまったりであるのだし。
 いつもと違う存在がいるだけで、その場所は『キッチン』と洒落た言い方をするよりかは『台所』の表現が似合う気がするのだから不思議だ。
 いやいやここのホントの家族ってボクとヤミノ君とフェンリルだけのハズ……と再確認せずにはいられない。
「ダディ、顔が赤いよ」
「うるさいです、フェンリル君」
 足元でぼそりと呟いた、思ったことを口にせずにはいられないある意味正直な息子の両頬をむぎゅぅぅっとつねる、大人気ない父親であった。

   * * *
 
「そろそろ、現実逃避もやめなくちゃ」
 と気分を引き締めたのは、朝食も終わって家の片付けもひと段落した午前十時。
 ロキは書斎にゆぅを呼び、自身は定位置に腰かけていた。
 現実逃避もやめなくてはと重い腰をあげるきっかけとなったのは、妙な錯覚に陥りそうになった朝の光景――それと、味噌汁だ。
「ゆぅは『味』ってよくわかんないです」
 彼女の無邪気な自己申告通り、味噌汁はこの現状をあらわしたかのように非常に複雑な味だった。闇野の絶品味噌汁に慣れた舌には、ある意味罰ゲームの味。美味いかと聞かれれば返答に窮し、不味いのかと聞かれればそっと視線をそらしたくなる、そんな感じのもの。
 まゆらって基本的には料理上手なハズ……と生ぬるく思い出してしまうのは、いつぞや彼女が作ってくれた肉じゃがの存在だ。これが、器はまゆらなのに中身が違うだけで罰ゲームになるのだからもう勘弁して欲しい。『おふくろの味でロキ君ゲット』なんぞとも言われたが、あの味噌汁ではゲットされようにも抵抗感がありまくりだ。その他の料理はいつも通り闇野の手によるものであったので、違和感がピカピカときらめいていたし。味のバランスってものは大事だとつくづくと思い知らされる。
『いや、味噌汁だと考えると微妙な味だったけど、味噌味の野菜スープだと考えればあれはあれで美味かった気が……』
 ロキはまたうんうんと味噌汁について考え込みそうになり、あわてて思考を振りやった。
 ロキを複雑怪奇な気分にさせた張本人である彼女は、両手でえっちゃんをつかまえてその不思議な弾力を楽しみながらソファにちょこりと座り、朝の光を含んであわく輝くレースのカーテンの様子ににこにこしている。
 どうにも、中身がどことなく幼い言動のゆぅであるだけにまゆらがふたつみっつ幼くなったようで調子が狂うロキであったが、そこで昨日と同じく現実逃避したり逃げ腰になったり躊躇っていてはちっとも前に進まない。そろそろきっかけのひとつでも掴まなければ、謎解き探偵の看板は下ろしてしまって廃品回収にでも出さねばならないだろう。
「ゆぅは……どうしてこんな現状になったか、心当たりがある?」
「げんじょう?」
 にこにこしたままこっくりと小首をかしげる彼女の表情ひとつに、一瞬後には『聞いたボクが馬鹿だった』と思わずにいられない。心当たりを考えるどころか、きっと彼女はこの現状に焦りの気持ちをかけらほども抱いていないのだろうとはっきりとわかってしまった。なんでも受け入れる自然体も、ここまでくると暴力と同等だ。
 少しは危機感を持って欲しい、と考えて、そんなところがまゆらと同調してしまった原因なのではないかとげんなりする。
 ホントにこのふたりときたら、揃って危機感が薄いのだからっ。
「あのね、ゆぅ。今は別の存在である『まゆら』の中に精霊であるキミがいるワケなんだけど、きっとこの現状はとてもまずいモノのはずなんだよ。まゆらにとっても、キミにとっても。ひとつの器にふたつの魂と意識が入っているのはとっても不安定。第一、櫻の姫が本体である櫻の木から離れていても大丈夫?」
 幼い子供に噛んで含ませるようにゆっくりと説明をしてやれば、あんぐりと口をあけてゆぅはロキの顔を眺めた。そんなものは微塵も考えていなかったとありありとあらわしていた。
「……大丈夫じゃないかもしれないです。ゆぅの櫻、死んじゃうです。そうなったらゆぅも死んじゃう」
 最後は蒼白な顔で、今にも泣きそうに。
 あぁもうっ! とロキは心の中でだけ頭を抱える。見た目はどうでも中身はどうやら五歳児らしい、これでは本当にちっとも話が進まない。
「うん、だから、それはボクがなんとか考えるから、ゆぅも思い出してくれない? どうやったら本体に戻れるかとか、今回みたいな姫の話をどこかで聞いたことがなかったかとか」
「ゆぅ……ゆぅは、あんまり覚えるのうまくないの」
 ぐずり、とゆぅは鼻を鳴らした。
 えっちゃんはゆぅを慰めようとしているのか、彼女の頭の上にちょっこりと座ってよしよしとその短い手で頭を撫でてやっている。
「だってゆぅは、自分の名前の意味も思い出せないんですもん。あの人が教えてくれたのに……せっかく教えてくれたのに……ゆぅの名前にはこんな意味があるんだよって、あの人が」
 ゆぅはその時とっても嬉しくって、思わずまだ八分咲きだった花を満開にしちゃったです。櫻もとっても喜んでくれたです。
 ゆぅはしょんぼりと肩を落とす。
「ゆぅ、名前の意味を思い出したいです。そしたら、本体に戻れる気がしますもん。だって、あの人があの丘でゆぅの名前の意味を教えてくれたんですもん。きっと『言霊』がゆぅを戻してくれますもん……」
「名前……言霊、ねぇ」
 日本には『言霊』と呼ばれる考えがある。物質や魂にはそれぞれ固有の、強い力を帯びた『名前』や『響き』があり、それを知ることはそのものの『本質』を知ることであり、最終的には支配や生殺与奪まで手中におさめられると言われている。
 その言霊の本質である『名前の意味』を彼女が思い出せば、本体の櫻の木と魂であるゆぅは強く結び付けられ、元の状態に戻るだろう。
 そう言えば、えっちゃんの『真の名』ってなんだろう。と、そんな場合でもないのにふと気になったロキである。
『言霊』の論で言えば、彼女の頭上に座る式神に宿る『真の名』である『言霊』もまた『えっちゃん』ではない。だが、無理矢理真の名を引きずり出し支配下に置こうとまでは考えてもいないロキであったので、えっちゃんがこの屋敷にとどまり続けているのは、半分はえっちゃんの自由意志でもあった。
 まぁ、現在問題とするべきはゆぅのこと、と気を取り直す。
「その、名前の意味を教えてくれた人って……」
「大きな戦争がある前のことです」
「……そーだよね」
 その人を探し出して由来を聞き出す案は一瞬にして蹴り出され、ロキはげんなりの底辺を深く掘り下げる。櫻の寿命は人より長いのだから、そんなのも有りだろうとはちらと考えたけれど、間髪入れずに断言されては虚脱もする。
「でも、とってもとってもすてきな人だったです。学生さんで、ぶんがくと言うのを勉強しに『とふつ』するって」
 あの時も今みたいにゆぅに会いに来てくれる人ってあんまりいなかったから、よぉく覚えてるです。
 ゆぅはその『学生さん』を思い出しているのか、ほんの少し前まで悲壮な顔であったのに、もうぽやぽやと笑っている。その様子は、丸いぼんぼりみたいにかたまって咲き誇る櫻のよう。彼女にとってその記憶は本当に楽しい、嬉しい記憶なのだろう。
「戦争前に学生で、渡仏できる人物?」
 かなり絞り込める気もするが、はてさてどうやって調べたら良いものか。
「直接ゆぅの記憶を読んだ方がはやいかな……まゆらがどうなっているのかも気になるし。これだけ時間が経ってもまゆらの片鱗も表に出てこないところを考えると、多分内的空間のどこかでのんきに眠ってるんだろうけど……」
 他人の夢に入ったり記憶を読んだりなどは、神様であるロキでもさすがに簡単な行為ではない。
 だが、いつぞやノルンの次女が送りつけた変な新魔法のせいで彼女の精神世界に入ったこともあり、日常から良く知るまゆらであれば、無理な話ではない。逆に、まゆらの中にゆぅがいることによって、彼女の記憶すらも読めるはず。
 まず最初に彼女がどこで眠っているのかも捜さなければいけない……と考えつつ、ロキはソファに座るゆぅの前へと立ち、その額に手を伸ばす。なにをするのかときょとんとした目で見上げる彼女の額に触れても、彼女にはまだ意味はわからない。
 彼女たちの記憶を読み取ろうと、ロキはおのれの額を彼女のそれにゆっくりと近づけたのだが……
「ロキ様でもそれ以上はダメなんですぅぅぅぅっ!!」
 いつもの、ゆぅ以上のおっとり具合はどこに行ったのかと疑いたくなるほどの勢いでバタンッ! と扉を開け放ち部屋に駆け込んだかと思うとゆぅの手をむんずと引っ張って彼女をかっさらって行ったのは……
「……レイヤ?」
 誰だったのかとはっきり確認する時間すらも与えず残像もなく消え去ったのは、おそらく玲也。しかも、あからさまな変質者を見る冷たい一瞥と、無駄に燃え盛る保護意欲だけはしっかりとロキに認識させていった。
 どちらもが、眉をはの字にした今にも泣きそうな顔に乗せてくれるのだから、彼女もある意味器用である。
「ボク、今回レイヤに嫌われてばっかり……カッコわる……」
 レイヤには好印象で通してきたつもりなのに、ボクの株大暴落中じゃないの??
 ソファの前でひとり微妙な体勢のまま取り残されたロキは、心の中でしくしくと涙にくれ、頭からソファに突っ込んだ。
 と、廊下でどげしっとなにかが倒れる音がして、その音を追いかけるようにして響いたのは『びぇぇぇぇっ』との幼げな泣き声。
「……ゆぅ、着物だから」
 廊下を覗かなくても状況はわかる。玲也の予想外の行動についていけなかったゆぅが廊下で盛大にこけて顔面から突っ込んだに違いない。
 ロキはズキズキと痛むソファで擦った額に手をやりつつ盛大にため息をつき、天井を仰ぐのであった。


 その日の昼食には、朝食の時よりも奇妙な光景が広がっていた。
「冷却シートの在庫がこの前のまゆらさんのインフルエンザの時に切れかかっていたんです」
 闇野の言葉とともにロキとゆぅの額には一枚の冷却シートを半分にしたものが貼られていて、なんとも間が抜けていた。
 産地直送のたけのこで作られたたけのこご飯も、互いの額の状態を見るに美味さ半減。
 どうにも調子を狂わされっぱなしのロキは、黙々と昼食をこなすしかなかった。
 苦行はまだまだ続きそうである。



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