Sakura Crisis 

【 4 】






 冬の間の夜明けは遅くどこかしら気だるげで緩慢だが、櫻が咲く季節ともなると太陽の目覚めもはやくなる。曙光も徐々に強さを増し、暑い夏がもうすぐ迫っているのだと世界中に知らしめているようだ。
 ロキは、ゆぅを預かって二度目の朝、闇野に起こされることなく目覚め、あの花見をした丘へとひとりでやって来ていた。
 朝の汚れない光に照らされてあわく輝く櫻の木は美しい。
 櫻と言えば人を魅了し、誘い込む妖艶なイメージがつきまとうが、朝の彼女は凄烈なまでの清潔さに包まれていた。
 ロキのコートの裾を揺らして吹き抜けたやわらかな微風は櫻の枝をふわふわと揺らし、まるであわい桃色の雲がたなびいているよう。まぼろしみたいに綺麗な光景は、見る人に幸せな気持ちを湧き上がらせずにはいられないだろう。
 そのたもとに立ち、満開の薄い花で身を飾る櫻を見上げていると、
「花が……」
 ひら……と花びらが一枚、ロキの目の前へと舞い落ちてきた。
 差し伸べた右手の平にひらひらと舞い落ちた花びらは、まさしく春のかけら。
 花見の頃からすでに飽和ぎりぎりまで咲き誇っていたゆぅの櫻なのでこの一枚はその先駆けかと思わないでもないけれど、櫻を見上げるロキの中にあるのは幸せな気持ちなどではなく、真反対の感情にあたる、小さな不安。
 この一枚が、魂と本体の絆が薄くなった為の不安定さが引き起こした変調ではないと言い切れないではないか?
 あわい春のかすみを見上げるロキの前に、ひらりひらりともう一枚、花びらが舞い落ちる。

   * * *

「あら? ここにもいないのです」
 ロキの姿をさがして書斎を覗いてみたゆぅは、不思議そうに首をかしげた。
 自室はもぬけの空であったのでここかと思って来てみたが、書斎にも姿がない。夜が明けてまだ一度も空気を入れ替えていないのだろう、ほんの少しだけ本の匂いが昨日よりも濃く感じられるくらいだ。カーテンもきっちりと閉められていて、朝の光も遮断され薄暗い。
 ゆぅはカーテンを開け、窓を開け放した。櫻の木であれば毎日浴びる新鮮な朝の空気がゆぅの全身を包んで通り過ぎ、部屋の中へと流れ込んで行く。
 同じように部屋へと流れ込んできたのは、庭にいつく鳥のさえずり。天気の良い日は一段と歌い鳥が増えるので、庭は騒々しいほどであった。
 窓からゆっくりと手をかざしてみれば、指先にちらちらと踊る朝の光。その感触が嬉しくて、ゆぅはにこにこと笑った。元の存在であった時も朝の光はこそばゆいものであったが、今の身体ではそれを強く感じられて、嬉しい。ヒトの身体と言うものは『触覚』が敏感なんだなぁとのんびりのんびりと考える。
「あ、そうでしたっ」
 ゆぅはあの小さな神様をさがしに来たのだった、とはたと気付き、書斎内を振り返る。やっぱりそこにロキの姿はない。
 ゆっくりと窓を閉めれば、ふぅ……と空気の流れが遮断されるのが見えた。
「ヤミノさんが捜さなくていいって言ってたけど……」
 朝ご飯の時間も過ぎたのにどこにもいないの、変です。
 との言葉は飲み込んで、ちょこりとソファに腰をかけた。
『いない』と何度も言葉にして『言霊』があの小さな神様をどうにかしたら大変だから、ゆぅはここで待つのです。
 目線が低くなれば、それはそれで楽しい光景が広がる書斎。
 ロキが座っている書斎机の上に朝の光がきらきらと落ちて、重厚な艶を引き立たせているのが綺麗だ。朝が来るごとに生まれる小さな太陽の精霊が、机の上でくるくると楽しそうにダンスを踊っているのがゆぅの目には見えた。
 壁に沿って設置されている本棚にはずらりと本が並べられていて、人の文字が読めたらいいのになぁと思わずにいられない。
 向かい側の壁にかけられた風景画は、自分が知らない、行けない光景なので目に楽しい。
 闇野が毎日活けかえる花瓶は今は空っぽで水滴ひとつないが、どんな花を今日は生けるのだろうかと考えると楽しい。
 そんなことをつらつらと考えていると、ふわぁ……と小さなあくびがもれた。
 気持ちの良い空の色に気持ちの良い太陽、落ち着く部屋に落ち着くソファ、ちょっとだけ目をつむったら、きっと気持ちがいいに違いない……


「ゆぅ?」
 朝の光に目覚めた櫻の咲く丘から帰ってみれば、書斎ではゆぅが眠っていた。
 くぅくぅと邪気のない寝顔がそこにある。伏せたまつげがあわい影を頬に落としている。
 そうしているとまゆらが眠っているようだ、とぼんやりと考え、今の状態で眠っているのはどちらなのだろう? との疑問へと行き着く。
 本当に、この状況は複雑すぎて嫌になる。まゆらひとりでも持て余し気味なのに、その上に超天然の人外の存在が乗っかるとはロキの予想範囲を軽々と超えている事態だ。
「ホントに……厄介な存在だね、キミは」
 こんなに近くにいるのに、キミはいないのだから。
「ま、退屈だけはしないけど」
 光が弾けるような明るい声も、こちらを振り回す唐突な思い付きも、騒がしい気配も、ここ数日味わっていない。
 こちらの押し隠した痛みを敏感に察知し、躊躇いつつものべてくれる手の平もない。
 他の『たくさん』と一緒くたにせずに、こんなおのれの為だけに向けてくれる笑顔もない。
 手を伸ばせば触れられる場所にいるのに『まゆら』がいない。
「一体どこで眠ってるのさ、まゆら」
 かわらない彼女の姿が目の前にあって、彼女の声がすぐそばにあって、その声がいつものように名前を呼んでくれないのは、非常に不愉快で。
 ゆぅが口にする『小さな神様』の呼称は不満以外の何物でもなくて。
「自分が乗っ取られかけてるって気がつきもしないなんて」
 どこかの片隅でくぅくぅと眠りこけているのだろう彼女の危機感の薄さと、誰も彼をも受け入れる無節操な度量の広さに頭を抱え込みたくなる。
 さらり、と亜麻色の髪を指先でひと房すくい解き放してみれば、重力に従ってさらさらとしなやかな感触を残して流れ落ちていく。
 その感触が気持ち良くて、ロキはもう一度髪をすくいとる。同じようにさらさらとこぼしてみれば、頬を掠める感触がくすぐったかったのか、彼女は眠りながらも唇の端に笑みを浮かべた。なんとも幸せそうな微笑だ。まるで、丸まって眠る陽だまりネコ。
 そんな平和そのものの笑みを見下ろしつつも、
「……そろそろレイヤが来てもおかしくないんだけど」
 ついつい不安げに呟いて背後の扉に視線をやってしまうのは、ここ数日の精神的ダメージがあまりにもひどかったからか。
 だが、彼女は昨日の夜から家の用事で、後ろ髪ひかれまくりの表情で渋々と帰宅したのだったと思い出す。
『十時までには絶対! 帰ってきますからッ!』
 彼女にしては珍しく強い口調の言葉を残していったが、その時間までまだ二時間半ほど残されている。
 ロキはしなやかな髪に触れていた手を彼女の頬にあてがい、ゆっくりとおのれの額をあわせ目を閉じる。
 いつかの日のように、深く深く彼女たちの内部へと入っていくイメージの端を掴み、時間をかけて彼女たちの中へと降りて行く。深い海よりももっともっと深く沈み込み、膨大な記憶の中へと融けて行く。一度通った道を辿れば、神であっても簡単ではない行為はすんなりと行えた。
 まゆらはあっさりと見つかった。精神世界の、浅くもなく深くもない場所で眠りこけていた。羊水に浮かぶ胎児のようにゆるく身体を丸め、櫻の花びらがつくったふかふかの海と花の香りに包まれて眠っている彼女もまた幸せそうに笑っている。
 彼女の上に降りそそぐのは、ぬくぬくとした春の光。どこまでも穏やかな光景が広がっていて、危険など微塵もないだろうと思わせる。これならば、必死に表面へと出てこようなどとまゆらでなくとも考えないだろう。
 それでは同じ器に入っているゆぅの記憶はどこだろう、と視線を巡らせれば、それもまたすぐ近くに存在していた。
 ゆぅの話通り、まゆらや光太郎であれば見慣れてなんにも感じないであろう高層ビルや大型の建物はひとつも見当たらない街並みを見下ろす丘の記憶の中に、彼女の名前の意味を告げた学生は存在していた。
彼女にとって本当に大切な記憶だったのだろう、その記憶はすべてがキラキラとした光で縁取られ、空までもが金色に滲んでいた。
 記憶の中の櫻は、十年前の大嵐で折れたと言っていた枝が天に向かって伸びていた。長い櫻の寿命であっても、遥かに昔の記憶であるのだとロキに知らしめる。
 今もそうであったが、彼女の櫻の周囲には、同じほどの木は一本も生えていなかった。なだらかに続く丘を縁取る場所には肩を寄せ合って幾本か木が植えられていたが、彼女の周囲には下草と小さな花しかない。『ずっとひとりぼっち』との言葉はこんなに昔からだったのだと考えると、今の状況もきっと物珍しくてにぎやかで楽しいとの彼女の気持ちも本当なのだろう。
 ほんのわずかの時間しか一緒に過ごしていなくてもわかる、人懐こく寂しがり屋な、小さな小さな子供の、櫻の姫。
 もしかしたら、まゆらがゆぅを受け入れてしまったのは、彼女も良く知る『寂しさ』に深く共感したからなのかもしれない。なにせまゆらは、他人の痛みや悲しみや寂しさにはひどく敏感な娘なのだから。
 だがロキは、ゆぅの大切な記憶のすべてを読み取って、なんとも言えない複雑な気持ちになるのを止められなかった。
 ゆっくりと現実の世界へと戻ってきてから、ロキは闇野へ、ある人物に連絡を取るように指示を出したのであった。



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